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ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 7 裂開

 沖に昇りかけた太陽は、光の絵の具のように雲間を流れ地上にあふれた。
 穏やかな波だ。際立つ満天の星雲。キラメク夜明け。
 
 浜辺に敷かれた結晶の絨毯を、海伝いに遠くから歩いてくる少女が見える。
「彼女が呪術師のアリです」
 アンリが伝える。
 
 名前から男だと思っていた。
 おそらく十代半ばくらいだろう。
「足手まといにならないか心配」
  真砂さんがつぶやく。
 
 目前までやってきたとき、少女にまず真砂さんが挨拶した。
 「こんにちは、はじめまして。真砂リサといいます」と微笑む。
 少女の前髪はピンクで、肩まで伸びたサイドは紫と青のグラデーション。半袖の着物風で艶やかな黒地に花柄をあしらったワンピース。右腕には黒いエナメル質のアームカバーを嵌めている。肌や体形の若さに比して、大人びた眼光に引きつけられる。

 少女はフッと鼻で笑い、「足手まといにはならないです」と真砂さんを見た。
 「えー、えー、ごめんねー、聞こえてたの?」
 真砂さんがつぶやいたとき、声が聞こえる距離ではなかった。
 
 あのわざとらしい話し方。
 真砂さんは何かを察した。
 もちろん、気づいたのは俺も同じだ。
 アリはフィギュール使いではない。しかし、対峙するだけで身にまとう空気に圧倒されそうになる。ニセモノではないとわかる。
 
 真砂さんは声を出さずに口をパクパク動かしている。
 真砂さん? どうしたんですか。目を見開いて何か合図している。
 波音が消えた。続いてカモメの鳴き声もボリュームをひねるように消え去る。
 
 アリは笑みを浮かべながら俺たちに何か喋っている。だが何も聴こえない。
 無音の世界にアリの悪意だけが浮き上がる。
 俺と真砂さんは音を奪われた。アリの能力だ。
 
 真砂さんは表情を変えずに横目で俺を見る。
 言いたいことはわかる。アリは俺たちを試している、さもなくばおちょくっているかのどちらかだ。
 ふいにどこか遠くから小さな音が聴こえた。
 小さな、小さな、繰り返し。それは徐々に大きく、巨大な怪獣の足音のように俺の内臓を震わせる。これは、自分の心臓の音だ。
 風の音すら消え失せた静寂に、耳元でミサイルを発射したかのような爆音がドクンドクンと規則的に襲来する。
 
 俺と真砂さんは激することなく、静かに「やめろ」というメッセージを視線に込めてアリを見つめていた。
 
やめろ。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
 
 俺たちの無言の訴えも虚しく、アリは逃げ場のない音の塊を容赦なく浴びせてくる。
 アリの哄笑をただ傍観していると、突如音の海の底から浮上し、日常の穏やかな環境音が戻ってきた。
 
 「わかったよ」
 俺はまるで何も起きなかったという調子でアリを見て頷く。
 「彼女は相手の聴覚を操作します」とアンリ。
 アリは楽しそうに皮肉を述べる。
 「お二人とも微動だにしないなんてすごいですね」
 「俺は来栖ミト。よろしく」
 「アリです」
 俺は右手で握手を求め、アリもアームカバーをした右手をややぎこちなく差し出した。アームカバー越しでも異様に手が冷たいのがわかる。
 
 アンリがあらためて作戦を確認する。
 「ではこれから北海道に入ります。昨日、ミーティングでお話しましたが、来栖ミトと真砂リサの二人に課せられたミッションは、榊と幽玄実行部隊をせん滅することです」
 「話は、たぶん聞いてるよね?」
 真砂さんがアリに訊く。
 「はい。大丈夫です」
 「そこから先、裂け目の閉鎖、クダの縮小と結界の設置はアリが担当します。本土から北海道へ通じるクダはすでに強力な結界が張られており、フィギュールは通り抜け不可です。移動もアリの能力を使用します」
 
 それにしても、昨日今日結成した寄せ集めのパーティでそんな化け物みたいな敵を倒すなんて可能なのか。真砂さんと俺は互いの能力すら知らないのだ。
 
 ふいにアリがアームカバーをした右手を差し出しているのに気づいた。
俺と真砂さんは首を曲げ、アリの右手の先を見つめた。
 沖の空から何かがくる。鈍く光る白い点。
 鳥だ。
 だがどこか違和感がある。
 こちらに近づくにつれて、その正体が明瞭になる。
 
 それは三匹の、骨だけの姿をした異様に大きな鳥だった。
まんまるの眼球だけが骨ではなく、生体に見える。
 鳥は静かに浜辺に降り立ち、羽をたたんだ。
 まるで博物館から逃げ出してきたようだ。
 「これはキミの能力なの?」
 真砂さんがアリに訊く。
 「操れるのは私の能力です」
 アメリがすかさず付け加える。
 「輪郭鳥は上位世界のテクネーです。空間系の能力者以外操作できません」
 向かう先はきっと地獄だ。心温まる、ふさわしいデザイン。
 
 「このまま真っすぐ磔の庭へ乗り込みます。みなさん、跨ってください」
アンリが指示を出す。
 「手綱などはありませんが、アリの能力でペアリングされるので落下の心配はありません」
 三人が跨ると輪郭鳥は羽を広げる。
 
 「飛べ」
 そうアリが命令すると、輪郭鳥はゆっくりと羽ばたき、上昇し始めた。
 星雲がよりいっそう近い。
 三匹は上空を軽く旋回したあと、スピードを上げて北海道方面へ飛んだ。
 太陽と星の群れから噴き出るまばゆい光のシャワーを浴びながら。
 「もっとスピード上げます」
 アリが透き通った声で叫ぶ。
 
 真下の海は天空を映し紫がかった光を吐いている。
 ときおり聞こえる海鳥の声を一瞬で追い越し、猛スピードで光の渦のあいだを突き抜ける。
 どこへ向かっているのかも忘れそうになる。
 光の世界に晒された真砂さんとアリの背中を見る。
 俺はこのとき、尽きることのない永遠を感じた。
 それは掴めそうで掴めない何かだった。
 
 二時間弱の飛行。
 水平線に霞む港が見える。
 手前には防波堤の先端に灯台らしき建物。
 「苫小牧に入ります」
 アンリがアナウンスする。
 
 予想した通りだ。
 灯台は針のような白い結晶に覆われ、実際よりも建物を大きく見せていた。岸壁に係留されたフェリーは、種々の結晶の歪なパッチワークと化して、重さで沈む寸前だ。地面のアスファルトも、植え込みも、すべてが余さず結晶化していた。
 
 港湾上空にさしかかったとき、地上に一切の音がないことに気づいた。
 人の気配もない。
 波音だけが来し方から聴こえる。
 
 視界に無音の射撃が現れた。地上からの連射。俺たちを狙って。
 三匹の輪郭鳥は瞬時に身を翻し弾丸をかわした。
 あそこか。
 ビルの窓に敵のフィギュールを視認する。
 弧を描いて飛ぶ輪郭鳥。
 アンリの指先から弾丸を連射する。
 一発残らず敵の身体を貫いた。
 ビル内部の物やコンクリートが砕ける音が窓の外に響く。
 
 三匹は低空飛行に移る。結晶化した街を縫って周囲を警戒しながら飛ぶ。
 
 ここは本陣。敵の数はこんなものじゃないはず。さっきの攻撃は狼煙だ。
そう思って交差点を曲がった瞬間、四方八方から一斉射撃がきた。そのすべてを輪郭鳥は正確無比な動きで回避する。敵のフィギュールを視認することはしなかった。アンリは素早く連射した。左手の商店のレジカウンターに、前方の街灯の陰に、右手ビルの屋上と四階に、背後の結晶の丘と化した車の助手席に。一瞬で五体に命中させた。
 「このまま突っ切ります」
 アリが叫ぶ。
 輪郭鳥のスピードが上がった。
 交差点を右折し真っすぐ、左右から弾丸の雨が降る。
 補足されることなく上昇下降宙返りを繰り返しながら自ら弾丸のように飛ぶ。
 
 住宅街に入ろうとした直後、通りの先に身長が三メートルはあろう巨体のフィギュールがいるのを視界に捉えた。タン、と地面を蹴る音。敵は跳んだ。
 次の瞬間、先頭を飛んでいた真砂さんの前に巨大な斧を振り下ろす巨体のフィギュール。
 アンリが撃つよりより早く、アメリは敵の巨体が小さく見えるほど巨大な剣を抜き、敵は一瞬でアスファルトごと真っ二つに切り裂かれた。
 
 あれが真砂さんのフィギュールの能力か。
 視認した光景は、錯覚だったのかもしれない、そう思うほど速かった。
 
 輪郭鳥はドーム型で天井に穴が開いている一軒家の前に降り立つ。
 「ここが榊の邸宅です」
 アンリはみなに伝えた。
 
 朽ちかけた、と聞いていたが、モダンな造りの要塞のような建物だった。
コンクリートの外壁はたしかに古びている。
 一帯で唯一この建物だけが結晶化を免れていた。
 話の通り外側に窓がなく、内部はうかがい知ることができない。
 
 「アリ?」
 アリの様子がおかしい。二の腕を擦って震えている。
 「どうした? 顔色よくないよ」
 近寄るとアリは俺の肩に手をかけて崩れそうになった。
 アリの腕を支える。驚くほど冷たかった。
 「大丈夫。ごめんなさい」
 アリは身体のバランスを立て直す。
 
 ここまで嵐のような敵の攻撃からかすり傷すら負わせることなく俺たちを運んできたのだ。アリの力には驚嘆せざるを得ない。疲れるのも無理はない、と思った。
 「ここは裂け目とつながっている巨大クダの中心です。疲労もあるのでしょうが、おそらく彼女は影響を受けているのでしょう」
そうアンリが言う。
 
 真砂さんがポーチからペットボトルを取り出し、アリに飲むように促す。
 「俺と真砂さんは平気だね」
 「お二人はフィギュールを付与されているからです。常人であればすでにメザニンに吸い込まれているでしょう。アリだからこそこうしていられるのです」
 「大丈夫です。私が解錠するのでドアを開けてください」
 アリは気丈に振る舞う。
 彼女が右手を入り口のドアに向けると、ガチャっと鍵が壊れる音がした。
 俺と真砂さんは顔を見合わせる。
 俺が先頭に立ちドアを開けた。
 
 土足のまま奥へ進むと、どこも驚くほど綺麗に整理整頓されていた。
家具は少ない。書斎を覗くと、本棚が目を引く。
 生物学、医学、細胞学、生理学、解剖学。榊が人体に並々ならぬ興味を持っていたことがわかる。
 ダイニングキッチンを横切って、中庭を見渡せるガラス戸へ。
 
 俺たちは目を見張る。
 そこにはたしかに木製の十字架が地面に埋め込まれていて、白骨化した遺体らしきものが垂れ下がるように括られていた。
 
 「ちょうどこの真下に榊が作り出した亜空間が広がっています。アリの能力で二人を送り込みます。榊と幽玄実行部隊の戦闘はすでに二カ月半におよびますが、私たちは三十分以内にケリをつけます」
 「アンリ……勝算は?」
 「……真砂リサと二人で臨めば勝ち目はあります」
 
 「大丈夫?」と真砂さんがアリに尋ねる。アリは黙って頷いた。
 アリは右腕のアームカバーを外す。
 右腕には夥しい切り傷の痕がある。
 アリは懐から剃刀を取り出し、左手に持ち替えてから右腕に切れ目を入れた。
 素早く、繰り返し、淡々と刻み込む。
 「ああ、ちょっと、アリちゃん」
 真砂さんがアリの後ろからアリの肩を抱くように止めようとする。
 「離してください」
 アリは冷静な態度で真砂さんの手からすり抜ける。
 腕から血が滲み、枝分かれしながら手首を伝う。
 アリがその手を高く掲げると、血液は赤い触手となって指先を包み込み、複雑に絡み合いながら伸び続ける。
 赤い触手は空間に穴を開け、削岩機のように広げていく。
 
 浄土ヶ浜のときと同じように音が消えた。
 どうやら真砂さんも同じみたいだ。
 「アアアア」
 クダを通り抜けるときの倍ほどの圧迫が全身を締め上げる。
 俺も真砂さんも膝を付き、身を屈めた。
 「三十分は、私が亜空間に開けた穴を閉じ切らないように支える限界です」
 最後にアリがそう言った気がする。
 そうだ、意識が飛ぶ前、中庭の円環から見上げた空には、地球に衝突しそうな巨大な月が浮かんでいた気もする。むせ返る色彩の星雲が晴れて、剥き出しになったのだ。焼け爛れた、太陽の廃墟のような月だった。
 
 意識を取り戻した。
 記憶が定かではない。
 気がつくと俺と真砂さんは、身を屈めたまま、見通しも立たない広大な樹海の中にいた。

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