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英語の学習の終点はどこか?

小学校の頃から半ば強制的に始まる英語の学習はどこなのだろうか?

そんなことを考えている暇がないほど多くの人が英語の勉強に忙しくしていると思ったので、英語の試験ベースでまとめてみた。最後は少し意外な結論になるかもしれない。。時間がない中まとめたので図はなく、文章だけになったのだが、かえって簡潔にまとまった気がする。とりあえずは、小学生が最初にぶつかるであろう「英検」について見ていこう。


英検[5級~1級]

最も簡単な英語から、最も難しい英語まで全てをカバーしている。5級は中学英語の初歩の初歩で、1級は英語の達人でも合格率は10%程度だと言われている。それゆえ、ほとんどの英語上級者には英検1級が英語学習の頂点に思える。しかし、上には上があるあとで紹介するGMATや国連英検という試験だ。


入試問題&センター試験

今後英語に縁がないであろうと言う人でも、ここまでは大部分が強制的につきあわされる。高校3年生まで、、ということで年数にして12年間。個人的には、英語は必要な人・やりたい人だけやれば良いと思っているので、日本語だけで食べていける/つもりの人が12年も英語に時間を費やすと考えたら恐ろしい。

TOEIC

センター試験で英語の勉強とは一生関わらない!と決めていた人でも、日本社会で生きていくためにはTOEICが必要だったりするので、気づいたら英語の勉強を再開しているという状況に陥っている。昇進にも響くし、給料額にも響く。「陥っている」と書いたのは、仕事で英語に構っている時間がないのに、学生時代よりも限られた時間と体力の中で英語を学ばないといけないからだ。英語のおかげで毎日が楽しくなるどころか、苦しくなっている。英語楽しい!と言っていながらも、実は心の中では苦しんでいる場合が多い。

泣きたい顔の上に無理やりスマイルマークを書かされている印象だ。そしてそれが私が持っているTOEICに対する印象だ。

普段英語を教えている私が、英語の教育に反対しても良いのか?と聞かれたら、堂々と良いと答える。私のモットーは、Project Slovarでおなじみの「英語学習には2種類しかない。味わうか、味わわないか」であり、英語は「贅沢品」という位置づけなので、全員に強制させるものではないからだ。贅沢品は欲しい人だけ手に入れようとするものであろう。

という少しそれたことを書いたが、社会的に成功したい→昇進したい→TOEICで良い点数を取りたい、という構図が有るので、多くの日本人に取ってTOEIC(ごときが)ゴールになっている。


TOEFL・IETLS

TOEICとは2文字違いの試験だが、難易度には雲泥の差がある。TOEICの満点はTOEFLで7割正答に及ばない。なぜこんなに難しいかと言うと、留学や移民したい人向けの試験だからだ。例えば、大学留学・大学院留学の足切り点として使われる。この試験で上位の成績がが取れる人は、確かに英語力は高いだろう。しかしまだ終着点ではない。大学も、大学院も、入ったら卒業する。卒業したら新たな人生のチャプターが始まる。移民もそうだ。永住権を得たら、新しい人生のチャプターが始まる。TOEFL・IETLSの終着点ですら、英語ライフの通過点であるので、この2つの試験は英語の学習の終点とは到底言えない。

GMAT

たとえ試験の難易度が上がったとしても、やはり結果は同じである。難易度はゲキムズのTOEFL・IETLSより更に鬼畜となる。ネイティブですらまともな点数が獲れないことで有名な試験だ。GMATは一流大学院に入るための試験だが、大学院は卒業が前提であり、学んだもの・そこで得た英語力を今後の人生で活かすのが前提だ。GMAT保有者は今後英語で仕事をする機会が多いことと思うが、その分野のプロフェッショナルとして活躍するのであれば、英語の学習はまだまだ続く。それなので、GMATレベルの試験になっても英語学習の終点にはなりえない。

国連英検特A級

合格率が10%を切り、7%の難易度に上がっても、上までの流れから特A級も英語の学習の終点にはならないと言えるだろう。同じく、取得してからもプロフェッショナルとして活躍し続けるので英語の学習は続けなければならない。

では一体何が終着点となり得るか?


SLOVARなりの答えはこうだ。


自分の英語の人格が成熟するまで。だ。


中学生の頃から思っていたことだが、私は1言語1人格だと思っている。英語なら英語の人格が有るし、中国語なら中国語の人格が有る。それぞれ育ち、成熟することで、Higher self(より高い次元の自分)になれると思うし、結局の所それが生きることではないだろうか。

人はただ生まれてただ死ぬだけなら他の動物とはあまり変わらないだろう。人が人なのは、生きていく過程の中でより良い自分になることで、世界を少しでも良いものにすることができるからではないか?

人としての目標と、英語の学習の目標が、同じ長さ・方向のベクトルを持ち切った時、英語の学習は終点に到達するのだと思う。言い換えたら、死期=英語の学習の終点だ。

英語の人格が育つと、英語を話す人の気持がわかるようになる。それゆえ、何をしたら、よりよい明日になるか分かるようになる。


英語の勉強の目標が試験の点数を上げることの人が非常に多いと感じる。必ずしも悪いことではないが、疲弊する。そうではなく、英語という自分の人格を伸ばす方向で考えたら英語の学習は少なくとも苦にはならないだろうと、そう考えている。



いつも記事を読んでいただきありがとうございます。英語学習に苦しんでいる方、つまらなそうに嫌々語学を学んでいる方が周りに居ましたら、シェアしていただければと思います。楽しく、深く、語学に取り組める人が1人でも増えたら幸いです。