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僕はもう多分考察しない
フェイクドキュメンタリー
一見ただの乱雑な文章だが、紐解ける怪文書
そういったものの考察を僕は多分もうしないだろう。
「考察用」の作品として差し出されることが増えてきたからだ。
僕が好きなのは「放送禁止シリーズ」のような、注意深く証拠を集めれば裏の真実に気づける、といった作品だ。
最近では、「特に答えのない意味深なシーン」を差し込んだ
「タイトルは決まってるけど軸がない」物語があまりに量産されている。
物語の真相、結論を受け手(視聴者・読者)に任せると言う試みは昔から行われている。
僕の記憶が正しければ、週刊誌で読者に結末を委ねるミステリー小説があったが、見事に滑ったのではなかったか。
SNSと承認欲求、ネタバレと自分語りが蔓延る現代で一番刺さるのは「考察用作品」を放流し続けることなので、それ自体は間違っているとは思わない。
昔ながらの都市伝説がテクノロジーに駆逐され、洒落怖のようなテック親和性が高いものが使いやすくなったのも事実であるし、
個が重視される現代で、「閲覧するだけで巻き込まれる」当事者参加型は孤独を埋めるコンテンツとして愛されるだろう。
そしてこの恐怖とは一見真逆の手法で、中毒的な怖さを広く薄く伝播してゆく構造はビジネスとしてとても上手だと思う。
ただ、僕はそれを面白いと思えなくなってしまった。
それだけである。
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