駅そばの話

私は駅そばが好きだ。最寄の隣駅に駅そばのお店があるので、たまに食べに行く。400円前後でとり天そばが食べられるというコスパもさる事ながら、何に気を使うでもないので、頭を空にできる。美味いとか不味いで一喜一憂することもないので、食でストレスを発散したい時には向いていない。しかし仕事で疲れた時、帰って一人で飯を食うのも味気ない時は駅そばが効く。入店すると渋い声のおっちゃんから「いらっしゃい」と一声かけられる。適当に食券を買って出し、出されたものを掻き込んで立ち去る。プロセスが極限まで単純化されていて、隙がない。家で侘しく飯を突くと、人恋しさや人生の虚しさに苛まれる。それなら無になれる駅そばの方が幾分かマシである。

駅そばの店舗は目立たない。ホームの中間や駅前の隅など、いつも背景の一部としてそこにある。看板とメニューのサンプル以外目立った広告もなく、自己主張しない。正に「入りたければ勝手に入れ」と言わんばかりである。飲食店によってはアットホーム感を売りにしているが、駅そばは知り合い、友達、主人、恋人、家族のどれにも当てはまらない。強いて言えば「他人」と呼べるのかもしれないが、それは人の形をした生命を人間と呼ぶに等しい。RPGでいうダンジョンの脇道、見なければ気付くことはないが、確かにそこにある。プレイヤーは全体マップがなければ、それが脇道とも知らない。正直入るための理由はないと言っていい。食事という行為に関して金銭的労力的なコスパを限りなく追求して、それを呼吸や瞬きといったレベルに昇華させるための道具。その一方で(蕎麦屋という括りで見れば)近代化以前から日本に存在し、最初から大して進歩も退化もしていない、正にオーパーツと言っていいのではなかろうか。

もう読者諸兄は何を読んでいるのか分からないと思う。大丈夫、私も何を書いているのか分からない。駅そばがオーパーツで、嘗てシュメール人が開発した後、ノアの災厄から生き残った人間が育てた麦がインダス文明に伝来してインドカレーの祖となり、スパイスと一緒に黄河文明に伝来して量産化、黄砂とともに日本に伝来した後、卑弥呼がスパイスでキマったを神のお告げと錯覚してヒステリーをおこし、シラフになり、自分の黒歴史を忘れるために一心不乱で泣きながら石臼で麦をすり潰して出来た塊を捏ねて切って茹でたらなんか美味かったからできた至高の文化云々、まで書こうとしたが辞めた。とりあえず1000字書き上げるために常軌を逸した妄想を書いた。責任は持てない。真偽は知らない。審議は必要ない。全ては駅そばの前に無となる。

それでは皆さま、お休みなさい。

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