見出し画像

ジミ・ヘンドリクスが生きている世界線 後編

 27歳の若さで世を去ったジミ・ヘンドリクス(Jimi Hendrix、以下JH)が2024年現在も生きていたら‐のifストーリー、後編の今回は彼が70年代以降に歩むであろう音楽的な変遷を想像して綴ってみたい。




 1970年9月18日の、ロンドンのホテルでの急逝という悲劇を回避できたとして、まずジミに必要なのは有能なマネジメント、そして大手レコード会社との契約であろう。
 そのうちの、レコード会社との契約はそう難しいことではないように思える。ウッドストック・ミュージック&アート・フェスティヴァル最終日での熱演を知っていながらJHとの契約を見送るようなポンコツな担当者など、来るべき70年代ではまずメシを食えるはずがない。

 問題はやはりマネジメントである。60年代のJHの不遇の最大の要因でもあり、それが解消されないかぎり彼の本領は発揮されないはずだ。


 周囲の助力のおかげでまともなマネジメントとレコード契約に恵まれたとしたら、JHは70年代前半に2~3作のリーダーアルバムをリリースするだろう。
 60年代の、ブルーズとサイケデリックの融合の延長線上にありながら、同世代のベーシストやドラマー、さらにはキーボーディスト達を従えて長尺のインプロヴィゼイションを展開していたのではないだろうか。

 一方で、60年代にはまだ未成熟だった当時のリズム&ブルーズ‐US国内のブラック(黒人)向けのレコード市場の拡大に合わせて、ヴォーカリストやキーボーディストとの共作や共演を実現しただろう。
 ハービー・ハンコックのヒット作”HEADHUNTERS”のリリースは1973年だが、JHであればそれよりも前にハンコックとの共演に漕ぎつけていたに違いない。ハンコックを自身のバンドに起用したマイルズ・デイヴィスの後押しもあればコトは簡単に進むだろうし…


 
 マイルズのバックアップを想定すれば、アレサ・フランクリンとの共演もじゅうぶんに有り得ただろう。
 彼女がレディ・ソウルの異名と共に大ブレイクを果たしたのはアトランティックに移籍してからだが、それよりも前のCBS時代の彼女の不遇に異を唱えていたマイルズであればJHとの共演を強く勧めていただろうし、その楽曲がヒットしていたらCBSもアレサ・フランクリンへの待遇について考え直していたのではなかろうか。





 70年代のJHの興味関心は楽器‐音響機材にも向かうことだろう。
 60年代の時点でギター用エフェクトペダルの製作で関わりのあったロジャー・メイヤーや、当時最新鋭にして最大級の出力を備えたアンプを供給していたジム・マーシャル(MARSHALL)とはリレイションを継続するだろう。

後にリリースされたシグニチュア、SUPER100JH



 さらに、エレクトロハーモニクス(ELECTRO HARMONIX)の総帥マイク・マシューズや、ギターのリペアサービス出身のエンジニアであるセイモア・ダンカン達はJHからの依頼を受けるたびに難題っぷりに眼を点にしつつも、なんとか満足させられる製品を生み出そうと四苦八苦するに違いない。

 ただし、フェンダー(FENDER)社との契約は実現しないような気がする。
 一度は生産終了の瀬戸際に追い込まれるまで売上が落ち込んだストラトキャスター(Stratocaster)が再評価される機運を呼び込んだ、その恩人たるJHのことを、CBSの支配下にあったフェンダー社が正当に評価したうえでエンドース契約の類を結べたかとなると、かなり難しいように思える。
 フェンダー社にとっての最初のシグニチュアモデルのリリースを実現したのがエリック・クラプトンであり、CBSからの独立を果たしてからの1986年である。


 それに、70年代後半のJHはシンセサイザーへ傾倒するのではないだろうか。
 60年代の誕生時はモノフォニック(単音)楽器だったシンセサイザーも70年代終盤には和音が鳴らせるポリフォニック方式の製品が登場し、小型軽量化が進んだことでステージでの演奏の制約も減っていった。
 この頃になるとJHはギターの演奏だけに執着せず、曲によってはオルガンでの伴奏やシンセサイザーでのリードプレイにも挑戦するような気がする。
 かりにギターを手放さなかったとしても、モーグ(MOOG、ムーグとも)社のタウラスペダルを足元に置き、当時のエレクトリックベースでは鳴らせない地響きのような低音を炸裂させて喜んでいる姿が容易に想像できる。





 80年代のJHはインプロヴィゼイション主体のインストゥルメンタル(器楽)路線から少しずつ離れるとともに、他アーティストのプロデュースや楽曲提供に軸足を移すのではないだろうか。
 先に名の出たマイルズ・デイヴィスはもちろん、ギタリストとしてだけでなくバンドリーダーとしての指針を示してくれたカーティス・メイフィールドとはアルバム一作が作れそうだし、数曲だけであればジェイムズ・ブラウンとのコラボレイションも実現できそうな気がする。

 それにこの頃になると多くのアーティストからのオファーが絶えず舞い込むことになるだろうから、いくつかは応じるかもしれない。
 その中でもエリック・クラプトンとスティングは真っ先に実現しそうな気がする。クラプトンとの邂逅は60年代に実現しているから不思議は無い。
 スティングはまぁ、コネや財力にモノをいわせてでも実現させるだろうし、その是非はここでは問わないでおく。


 80年代後半になると録音技術のフルデジタル・ハードディスクレコーディングへの移行が進むし、さらにシンセサイザーにMIDI規格が導入されることで録音環境が大きく変化する。
 JHはこれを機として自宅での楽曲制作に移行するだろう。スタジオで延々と録音を繰り返すよりも格段に早く安上がりに楽曲が製作できる環境はJHにとって理想的であろうし、彼の才をもってすれば2000年代を待たずしてPC上の音源データだけで制作したアルバムのリリースを実現するかもしれない。






 90年代初期にUSのロックシーンを覆ったグランジ(Grunge)のブームに、しかし、JHの食指はそれほど動かないような気がする。彼にしてみれば壁のような轟音を響かせるギターはもはや目新しくもなければ刺激的でもないだろう。 

 それよりもブラックミュージックシーンの潮流だったラップやヒップホップの可能性にいち早く眼をつけ、若手との共演を実現していたはずだ。
 いや、むしろ、JHをスタジオに招いたDJやラッパー達はJHがギターやシンセサイザーから引きずり出す音の洪水に圧倒され、JHマジパネェっす、としか言えなくなるおそれがある。

 2000年代のJHは他アーティストとのコラボレイションや楽曲提供を主軸としながら、かつての旧友との再会となるセッションやコンサートでの共演が増えるかもしれない。
 スティーヴィー・ワンダーとの揃い踏みが実現した日にはヤ○ーニ○ースのトップ間違い無しだし、ポール・マッカートニーとの共作曲は後々まで聴かれるエポックメイキングなものになるだろう。
 
 こういったコラボレイションは商業主義として批判の的になりえるし、ロックが社会のはみ出し者たちのアンセムだった時代、体制や旧習からの解放の象徴だった時代を知る者のひとりとしてJHはこれを拒むかもしれない。

 しかし、サブスクリプションやネット配信、動画投稿サイト、さらにはそれよりも以前に賛否両論を呼んだナップスター等の影響を間近に見ていれば、アルバムの制作とリリース、そのプロモーションを兼ねてのコンサートツアーというサイクルをひたすら回す旧来のビジネスモデルが遠からず立ち行かなくなることはじゅうぶんに予見できるはずだ。

 2000年代初頭で60代となるJHは、自身の肉体的な衰えを‐程度の差はあれ‐自覚しながらの活動を余儀なくされるだろうから、(良い表現ではないが)高効率なビジネスを拒むことは考えにくいだろう。





 2010年代には先のようなコラボレイションも減り、楽曲制作のペースも落ちることだろう。アルバムのリリースに5年以上の間隔が空くのも不思議ではなくなるはずだ。
 世間の耳目を集めるトピックといえば、1969年のウッドストックをはじめとする過去の音源や映像のリイシュー(再編集)とリリースが中心になるだろう。もちろん、それとて巨大なインパクトがあるが…


 もし2020年代初頭の世界を襲った感染症のパンデミックをJHが目撃していたとしたら、どうだろう、それをテーマにした楽曲やアルバムをリリースしただろうか。
 それよりも、ロックダウンで活気を失った街に背を向け、自宅のスタジオにこもって黙々と新しい楽曲の制作に没頭していそうな気がする。

 もしかしたらこれを機に、かつて途中まで進みながら頓挫してしまった共演や楽曲提供を少しずつ再開させるかもしれない。カルロス・サンタナやジョー・ペリーなどはJHからのメールに飛びあがって狂喜するに違いない。


 たとえそのようなかたちでリリースされる楽曲が単発であっても、JHの名が挙がるたび、他アーティストとの口から語られるたび、ギタリストとして、アーティストとしてのJHの存在感は年を追うごとに重みを増すことだろう。





 こうしてジミ・ヘンドリクスが生きていたらのifストーリーを書き綴ってきたが、どうしても私には予想がつきにくいものがある。
 彼の来日公演が実現するとしたら、いつ、どのようなタイミングか、である。

 
 70年代や80年代では実現できないだろう。
 JHがその才能を余すところなく発揮できたとしたら世界が彼を放っておくわけがなく、80年代末の為替市場での円が異様に強くなった時期ぐらいしかチャンスは無かったに違いない。
 しかも1991年にはその高騰も終焉を迎え、バブル景気という名だけを残して日本は長い停滞期に入ってしまったのだから、90年代のJHの来日公演もまた実現しなかっただろう。

 
 そうなると、2010年代以降の、日本でも定着しつつあった野外ライヴイヴェントがふさわしいように思う。
 なかでもフジロックフェスティバル(フジロック)は90年代末から現在まで続いており、出演アーティストからの評価も高いときく。

 
 最終日の大トリでステージに姿を見せたJHがギターを弾き、歌う、その一挙手一投足を見逃すまいと身を固くするオーディエンスが客席前列に陣取る、その姿を嘲笑する者も居ることだろう。
 しかし、何の前触れもなくJHがつま弾いたギターの音が会場に響くやいなや、その鮮烈さに客席の誰もが言葉を失ってしまう。その瞬間に立ちあい、その空気を感じ取った者にとって、ジミ・ヘンドリクスの名は一生忘れられないものになる。



蛇足だが、名の挙がったアーティストやメーカー、ブランドおよびその製品、並びにユーザーの皆さまの名誉を毀損する意志が無いことを記しておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?