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"Walking In Memphis”を聴くたびに想うこと

 元中古楽器店員としてギターのハードウェアや周辺機器、修理調整に関する記事を書いてきた私だが、noteのタグの中に#音楽感想文というものがあり、読み応えのある多くの記事が集まっているのを眼にして、今回初めて楽曲の感想を投稿しようと思い立った。
 採り上げるのはマーク・コーン(Marc Cohn)の”Walking In Memphis”、1991年のヒットナンバーである。





 といっても私自身はマーク・コーンの熱心なリスナーではなく、”Walking In Memphis”という曲もネットラジオでたまたま耳にして知ったのである。

 この曲はコーンのセルフタイトルのデビューアルバム、そのオープニングナンバーであり、USビルボード・ホット100チャートで13位、同メインストリームチャートで7位(いずれも最高位)を記録するヒットとなった。
 コーンは翌年のグラミー賞で3部門にノミネート、その中のBest New Artistを受賞する栄誉に浴している。





 2020年代の現在ではあまり語られる機会のない”Walking In Memphis”だが、この曲が誕生した背景はこれまでにいろいろと明かされているようだ。

 作曲に行き詰まり、自身の楽曲にオリジナリティが足りないように思えてきたコーンは思い立ってテネシー州メンフィスを訪れる。1985年のことだったそうだ。

 メンフィスはかのエルヴィス・プレスリーが育った街であり、ゴスペルやブルーズ、ジャズ、ソウルミュージックが根付くミュージックシティである。
 エルヴィスの邸宅「グレイスランド」を訪れ、ビール(Beale)通りを歩き、地元のカフェ「ハリウッド」で歌う機会を与えられる‐そこで遭遇した元教師、毎週金曜日にステージで歌声を披露していたMuriel Davis Wilkinsに

「あんた、クリスチャンなのかい?」("Tell me are you a Christian child?")

と訊ねられたコーンは‐おそらく熱狂と感動から‐こう答える;

「はい、今夜はまさにそうなんです」("Ma'am I am tonight")

 




 マーク・コーンは1959年にオハイオ州クリーヴランドに生まれる。80年代中盤頃にはニューヨークでセッションヴォーカリストで生計を立てながら作曲を続けていたという。

 こう言ってしまうと身もふたもないが、彼のメンフィス探訪は楽曲制作に行き詰まった末の現実逃避が半分、使えるネタ探しが半分といったところではなかったか。

 それが、エルヴィスのかつての栄光の跡グレイスランドやブラックミュージックの発祥の地たるビール通り、地元のカフェでのクワイアコーラス‐ゴスペルといったUSの音楽の源流を辿る旅、今風にいえば聖地巡りの情景が1991年当時の多くのリスナーの心をとらえたのだろう。

 
 さらにいえば”Walking In Memphis”で描かれる情景が、主にUSの多くのリスナーにとって同じ共感を呼び起こすのに十分なぐらいに認知されていたということでもある。

 私も音楽遍歴はそれなりに長いほうだし、”Walking In Memphis”の歌詞に出てくるblue suede shoesやW.C.Handy、Delta Blues等につい耳をそばだててしまうクチだが、それでも、メンフィスの街を歩きながらコーンが感じた高揚を理解するのにはけっこう時間がかかった。
 ましてUSの、主にブラックミュージック、しかもエルヴィスよりもさらに前の50年代以前のそれについてある程度の理解造詣が無いと、この曲の情感‐少なくともコーンが込めた想いを感じ取るのは難しいように思える。

 
 あるいはそれゆえに、テネシー州メンフィスの豊沃な音楽文化に馴染んできた人達にとって”Walking In Memphis”は強い共感を呼び起こすアンセム(anthem)たりえるのだろう。YouTubeを軽く検索するだけでも実に多くのアーティストが採りあげているし、マイリー・サイラスは2019年にメンフィスで開催されたイヴェントでマーク・コーンとの共演を実現している。

 コーン、サイラスに合わせて合唱するオーディエンスの嬉しそうな顔を眺めていて私の心をよぎる感情に、嫉妬の色が全く無いといえば嘘になる。この曲を生み出すのに十分な豊かさがメンフィスの街にあるというゆるぎない事実を見せつけられる思いである。

 


  

 ”Walking In Memphis”を聴いていてもうひとつ心に浮かぶことがある。
 私の友人・知人のミュージシャンで、かつてのマーク・コーンと同じように音楽活動に行き詰まってしまって悩む者がいたとして、彼らに訪ねるべき街や、俗にいう「聖地」を指し示すことが現在の私には出来るだろうか、という問いである。

 ○月○日に□□のライヴが△△であるらしいから、気晴らしに観にいってみたら?というような気休め程度であればそれなりに心当たりはある。


 メンフィスでコーンが覚えた、通りを歩いているのに足が地に着いていない(”walking with my feet ten feet off”)かのような高揚と感動を、保証は難しいとしても若干なりとも期待できるようなエリアや街区を彼らに案内できるだろうか、となると私はウーンと唸って首を傾げてしまう。

 あえてひとつ挙げるとすれば神戸市の元町~三宮界隈だろうか。


 神戸はジャズが根付く街であり、ライヴを聴かせる店もけっこうある。中古レコード・CD店も多く、現在は改装して様変わりしてしまったが元町高架下商店街の店には私も足を運んだものだ。
 何の下調べもせずにふらりと入ったカフェでたまたまラリー・カールトンが流れ、改めて看板を見ると店名に「335」とあったりする、そんな体験も神戸でのことだった。

 
 音楽は文化であり、文化は蓄積でもある。
 さらにその蓄積された遺産を"revisit"‐再訪することでも優れた楽曲が生まれ、多くのリスナーの共感を呼び起こすことがある。

 「主語の大きいハナシ」‐客観性を欠く一般論はなるべく避けたいのだが、それでも、若いミュージシャンが再訪する先が見つからない環境と、”Walking In Memphis”が生まれ、ヒットを記録する文化圏のあいだに横たわっているであろう大きな隔たりを感じずにはいられない。