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家系図④父方(2)祖父の軍歴証明書が到着

少し間が空きましたが、7月末に請求した戸籍は一通り届き、その後請求した戸籍と書類も返送され始めています。

今日は78回目の終戦記念日です。
記事にするのがこのタイミングになりました。

祖父の軍歴証明書を請求して1週間後。
軍歴証明書が届きました。

▼請求時の記事はこちら

軍歴証明書は当時の手書きのコピーが届いたり、
パソコンで打ち直したものが届いたりと、都道府県によって様々なようです。
祖父のもの(北海道)はパソコンで打ち直しされたものでした。

ちなみに打ち直ししているもので、原本に判別できない文字があったら「●●(解読不可)」の様に記載することがあるそうです。
同封されていた送付状にもその旨が書いてありました。

祖父の経歴は読めないところはなかったようです。
19歳で入隊し、20歳で満州で終戦。
その後は聞いたとおり、23歳までシベリアで3年間捕虜になっていました。

志願兵というのが少し気になります。
志願していなくても志願兵と書かれる場合があるらしいですが、出典元を忘れてしまったので思い出したら追記します。

留守担当者の氏名が兄になっているのでお兄さんは出兵しなかったようですね。このお兄さんは当時祖父の戸籍の戸主の方でした。

祖父が所属していたのはどんな部隊だったのか。

騎兵第171連隊 満4392部隊

満とは満州のことだそう。
部隊名で検索すると1冊の本が出てきました。

日本の古本屋

た、たかい…!
詳細に書いてあるようですが、さすがにすぐ手が出せません。

他にも、祖父と同じく北海道で北部5部隊に入隊し、騎兵171連隊および満4392部隊に所属していた方の手記も出てきたので
そちらの手記と、検索して分かったことをまとめます。

駐屯地   満洲国 間島省 琿春県 琿春街近郊
部隊名   満洲第4392部隊(乗馬騎兵)
固有聯隊名 捜索第171聯隊
師団固有名 第71師団

壞了士兵的参軍囘憶記

捜索第7連隊→騎兵171連隊(満4392部隊)
騎兵171連隊は1942年(昭和17年)旭川で編成されています。
満4392部隊の総員は180名ほどだったそう。

上位組織:第10方面軍 通称号「湾」
     
第71師団 通称号「命(みこと)」

編成当初は第71師団配下でしたが、
祖父が入隊した4か月後の1944年(昭和19年)7月に第108師団が再編成され、以降は第108師団配下となっています。

終戦時
上位組織:第3方面軍 
通称号「强(強)」
 
第108師団 通称号「祐(ゆう)」
 最終位置:満洲 奉天

第3方面軍(強)は満州南部に駐屯していたようです。奉天から新京など満州大都市を中心に防衛・警備任務にあたっていたそう。

ソ連との国境の防衛も担当していたようですが、
1945年(昭和20年)8月8日に始まったソ連対日参戦にて満州が攻め込まれ、武装解除させられています。
そしてシベリアへ。
抑留後、1948年(昭和23年)10月ナホトカ港で英彦丸に乗船し、帰国。このとき第3方面軍の方たちは帰国できたようです。

上記出典:壞了士兵的参軍囘憶記古本 将軍堂大日本帝国陸軍 全部隊配置 | 1945年8月(終戦時)アジ歴グロッサリー

手記「壞了士兵的参軍囘憶記」の作者、中倉鹿三さんは
騎兵171連隊では第3中隊の所属だったようで、祖父は第2中隊だったので身近な方ではなかったようです。
手記を最後まで拝読しましたが、移動した日付が祖父の証明書と同じで。祖父も同じような思いをしたのでしょう。

19歳から23歳までの4年間、どれだけ辛かっただろうか。
祖父が結婚したのは帰還後の翌年で、祖父が帰ってこなければ父も私も生まれていません。

祖父は晩年神奈川に引っ越しましたが、毎年北海道から立派な蟹を我が家に贈ってくれていました。
何年も経ってから知りましたが、あれは戦友会の集まりで北海道に行っていたんだそう。

都道府県から送付された軍歴証明書はこの一枚で、
他に資料などはありませんでした。
ということで

厚生労働省にも資料を請求しました。
ちなみに宛先の資料第一班が陸軍で、海軍は第二班になります。

厚生労働省への請求方法と届いた資料はまた記事にします。

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