「あの夜を覚えてる」1ヶ月後の今更感想 なぜラジオが好きなのか?

(3月20日、27日に行われた生舞台・生配信、「あの夜を覚えてる」の感想、自分に置き換えて思ったことを今更まとめてみました。ネタバレ含みます)

なぜこんなにもラジオが好きなのだろうか。
その糸口をふと掴めそうな、そんな舞台だった。
2公演見て2公演とも、気づいたらボロ泣きしていた。ラジオに少しでも思い入れのある人には胸に刺さる、素晴らしい内容だった。

自分がラジオを本格的に聴き始めたのは大学生の頃だ。当時熱烈に好きになった芸人、オードリーのラジオが始まったからである。
自宅は山間部に位置しておりラジオの電波がほとんど入らなかったため、それまでほとんど馴染みはなかった。当時はまだradikoがなく、市販のSDカードに録音もできる最新の携帯ラジオを購入し、毎週「オードリーのシャンプーおじさん(文化放送)」を聴いていた。だがやはり電波の入りは悪く、よく他国の音声が混じっていたのを覚えている。
勉強中にもラジオを聴いていた。流していた、と言った方がいいかもしれない。ラジオ日本の夜の番組があまり知らない音楽を流してくれて、ちょうど良かったのを覚えている。
そのうちに、オードリーのオールナイトニッポンが始まった。楽しすぎて面白すぎて、同じ回を何回も聴き返したり、友達に録音を聞かせたりするくらいラジオに熱中した。下ネタラジオネーム、自分磨き、リスナーとの電話、いろいろなエッセンスがごった煮になった深夜の世界にズブズブに引き込まれた。Creepy Nuts「よふかしのうた」の通り、すべてが新しかった。
すっかり深夜ラジオの面白さに夢中になった自分は他のラジオ番組も聴くようになった。おぎやはぎのメガネびいき、アンタッチャブルのシカゴマンゴなど特に好きで、録音してよく聴いていた。
働き始めて、ニッポン放送のイベント「ラジオパークin日比谷」にも行った。春日さんの当時住んでいたむつみ荘が完全再現されるという狂った空間だった。暑いくらいによく晴れていて、いろんな番組のファンの人が集まっていて、それぞれ自由でものすごく楽しかった。
自分にとってラジオというフィールドは新鮮で、画面が見えないはずなのにパーソナリティの表情や動きが想像できて、2時間も好きなパーソナリティの密なやりとりや面白いコーナーもあって、充実していて楽しいものだった。

2011年の震災の時も、不安や悲嘆でいっぱいだったのだが、オードリーのラジオを聞いてすごくほっとした。仰々しいことを言うでもなく、わざとらしい善意があるわけでも、恐怖心を煽るわけでもなく、オードリーはただ漫才をしてくれた。普段からよく聴いている声がいつもと同じ調子で話してくれるだけで、心底安心したのである。

ラジオの良さは程よいクローズド感、いわゆる「部室感」があると思っている。
そして「あの夜」でも言われてたが、ビジュアルに頼らない分「本音」が見えやすい。ある程度は作って話す部分はみんなあると思うが、パーソナリティ同士の掛け合い、相槌、メールへの反応、笑い方、そういったものでなんとなく「人となり」がわかってくる。
トークの上手さは波があるけどいつも相槌が優しいなとか、見た目は今風でイカつい感じだけど話すと素朴な感じだなとか、パッと見暗い感じだけど話し出すとマシンガンみたいに止まらなくてバンバン面白ワードが出てくるなとか、とにかくよく笑っていつも楽しそうだなとか、リスナーにイジられてもノリノリで全然嫌がらないなとか、パーソナルな部分が垣間見えて、それが面白い。もちろん合う合わないはあるが、一長一短ある人間味の部分がよくわかるのが面白いと思う。
1番の特徴としては、リスナーとの双方向のやりとりだろうか。コーナーがその最たるもので、もちろん面白い投稿がないとコーナーがダメになるのだが、投稿メールによってだんだんと方向性が決まったりするのも面白い所だ。「なんだ、今日収録なのか…」とがっかりする人が一定数いるが、それはやはりリアルタイムのやり取り、リアクションメールへの反応を楽しみにしている人がいるということだろう。そのリアクションメールからコーナーに発展したり、すごく爆発することもある。

人の声というのはいいものだ。
聴いているだけでほっとする。孤独が紛れる。話している内容を聴いて笑っているだけで、なんだか友達ができたような気持ちになる。
ただ、本編でも言及していたが、(これはネットやフィクションにも言えることではあると思う)そこに耽溺しすぎると「現実の人間」と向き合うことを避けがちになってしまう(というより、避けていても気持ち的にそれほど困らない状態になる)一面もある。
大学生の頃の自分がそれで、ネットの交流である程度気持ちが満足してしまい、実際の同級生や仲間にそこまで踏み込んでいかなかった。ネットの声やラジオのパーソナリティのように自己を開示してくれているわけではない相手に踏み込んでいくのは、内面が見えないから怖いのである。
ただ、当たり前ではあるがどんな人間もある程度線引きしながら自己を開示してくれているものだし、それがすべてというわけではない。我々が見聞きしているものは、あくまでもその人の一面に過ぎない。そして何より、他人を覗くだけではなくて自分もまた、自らを開示していかなくては、心の触れ合いは生まれない。

今回の舞台のキーである俳優の藤尾涼太は、楽しい話をするラジオのパーソナリティに憧れており、でもトーク力に自信が持てずに、自分の言葉ではなく作家の言葉に頼ってラジオを「創り上げて」いた。いつかは自分の言葉で話したい、という思いを抱きながらも、重圧に耐えきれずそのまま番組を終えてしまうことになる。ネタ出し、という意味では間違いなく本人のネタではあるのだが、1字1句決まったセリフを読むという、かなり創作味の強い番組となってしまった。
この事実を知ったADの植村はショックを受けるが、2年後にはディレクターとなった自分の番組でも同じ方式で制作することになる。
担当する番組のパーソナリティが体調不良で休みとなり、ピンチヒッターとして植村は藤尾を選ぶこととなるのだが、ここの電話でのやり取りの演出が素晴らしかった。電話越しなのに、目の前のラジオブースに藤尾が現れ、目の前で喋っている。これはまさに「ラジオを聞いている時のリスナーから見たパーソナリティとの距離感」の可視化ではないだろうか。
そして番組が始まるも、台本が間に合わず初めてフリートークの指示が出て、藤尾さんは戸惑いながらも初めて「自分の言葉」で話し始めるのだが、この場面から最後までもう胸が熱くなって涙が溢れてしまった。それまで饒舌だった所から一変して、たどたどしく、緊張が見て取れる喋りとなる。声のトーンも陽気なトーンから静かな調子に変わり、うまく話せなかった学生時代、クラスメイトがラジオを聞いていたことから始まるラジオとの出会いのエピソード(他の方の感想を参照するに演じている千葉さんの実体験らしい)を話す。そしてリスナーからリアクションメールが届く。このメールの内容は実際に舞台公演中に届いたもののようで、一日目と二日目で内容が変わっていたのだが、どれも暖かく、台本通りに喋っていたとカミングアウトした藤尾さんを受け入れつつも下ネタを入れて落としたり、正直な告白に感謝を述べながらもうまくイジったりして、ラジオリスナーの寛容さがよく現れていた。
「寛容さ」。詰まるところ、ラジオの心地良さはそこなのかもしれない。
「うまく喋れなくてもいい」「面白い話ができなくてもいい」──細かくメモしていたわけではないので、本編に出てきた言葉か、チャットに並んでいた言葉か忘れてしまったのだが、印象に残っている。ごちゃっとしてもいい、噛んでもいい、変な趣味があってもいい、それもまた面白い。その寛容さに、聴いている人は救われているのかもしれない。

所々に番組のパロディも散りばめられており、現役パーソナリティによる幕間映像もあり、非常に楽しかった!千葉雄大さん、高橋ひかるさんはもちろん、イエスマン龍役の入江さん、AD相原役の工藤さんの演技もすごく良かった!
そしてこれだけは言いたいのだが、三四郎相田さんの演技力の高さにゾクゾクした。癖のある敏腕プロデューサーを演じているのだが、金髪から黒髪に染め直し、怒った時の怖さを感じる威圧感ある態度から、植村たちを見守る時の貫禄、最後にすべて無事に終わった後の豪快な笑い、まさに「曲者」って感じで素晴らしかった!