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平将門 ブレーン無き武士の末路

桓武平氏と言われる通り、平将門の祖は桓武天皇まで遡る。
桓武天皇の皇子、葛原(かずらはら)親王は、一品・式部卿まで上った有力な皇族であった。その子には高棟王と高見王がいる。
高棟王は平朝臣として臣籍降下し、正三位・大納言となり、その子孫も貴族社会で繁栄した。
一方の高見王はどうやら早世したとみられているが、その子の高望王は平朝臣を賜り、従五位下・上総介に任じられている。(上総国は親王任国であり、守は現地赴任せず次官の介が事実上の長官にあたる)

高望王の子のうち、おそらく三男とみられる良将(よしもち)が将門の父である。
鎮守府将軍に任じられるなど、武勇に優れた人物であったようだ。
しかし、他の兄弟は嵯峨源氏の源護の娘を妻にしているのだが、良将家は源護との姻戚関係を持っておらず、次第に兄弟の中で孤立し、やがては一族の紛争にまで発展する。

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長くなるが、ここで一族の内紛について述べておく。

将門の妻は、良将の兄である良兼の娘ではあったが、父良将の死後に良兼と行き違いがあり(良将の遺領を巡る争いであろう)、合戦にまで発展してしまった。

「将門合戦状」によると、935年に常陸国野本において、源扶・隆・繁(いずれも源護の息子)と合戦し、将門が勝利した。
さらに筑波・真壁・新治三郡を制圧した。この過程で伯父の国香が討ち死にしている。

ついで、叔父の良正が、源護との関係から将門を討とうとする。これを伝え聞いた将門は、常陸国新治郡川曲村で良正と戦い、これも勝利した。

敗れた良正は兄の良兼に助けを求め、さらには国香の嫡男の貞盛も組み入れて下野国へ進撃、下野国境にて将門と交戦、ここでも将門が勝利した。

ここで重要なのは、下野国府に逃げ込んだ良兼を、将門は敢えて逃したことである。
国家権力に対抗する意思は全く無いと示したことになる。
その後、将門はことの経緯を国庁の日記に記録させ、後日の証拠とした。
意外と冷静沈着な将門像が際立つ。

源護は告発状を朝廷に提出、それを承けて原告の護と、被告の将門を召喚せよという官符が届き、将門は護より先に京に上り、検非違使庁で事の顛末を弁明した。非常に理路整然と陳述したという。
当今の朱雀天皇のあわれみと、将門の主君であり摂政であった藤原忠平の影響もあり、処罰は軽く済んだばかりか、畿内一帯に武勇の誉を得た。さらに937年正月の恩赦によって無罪となり、将門は悠々と坂東の家に戻る。

将門の帰郷を待ち受けていたのは、恨み骨髄に達した良兼である。将門の本拠地を焼き払い、軍馬の供給地を叩いて将門の戦闘能力を削る作戦に出る。
今回の合戦は将門にとって不運であった。脚の病に見舞われ、敗北を喫するのである。

その後、良兼とその子の公雅・公連、源護、貞盛らを追捕せよとの官符が、武蔵・安房・上総・常陸・下野国に下された。
この時点では、まだ将門は朝廷側であった。
939年、良兼は死去。貞盛は庇護者を失い、常陸国に潜伏せざるを得なくなった。

将門と一族の内紛は終息し、平穏に人生を送れたかもしれない。

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将門の運命を大きく変える事件は、内紛終息の前年に起こっていた。
武蔵国府において、武蔵権守興世王・武蔵介源経基と、足立郡司判官代である武蔵武芝が激しく対立していたのである。

事件の発端はこうである。

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正式な武蔵守が任地に到着する前に、興世王と源経基が強引に足立郡に立ち入り、武芝の所有する舎宅や民家を襲撃して略奪したというものであった。
要は、当時よくあった国司と在地の豪族との租税を巡る争いである。

この興世王という人物が、何やらいかがわしい。系譜不明の皇親というが正体が分からない。
経基は二世の賜姓源氏(父は清和天皇皇子の貞純親王)で、後世の武家源氏(頼義・義家等)の祖となる人物である。
武芝は、元々は丈部直(はせつかべあたい)氏で、767年に武蔵宿禰を賜った武蔵氏の人物で、伝統的な地方豪族である。

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これに将門がどうして関わる気になったのかがいまいちわからない。
単に坂東を束ねる人物として巻き込まれただけかもしれない。

まず将門は手兵を率いて、武芝と共に国府を目指し、既に国庁に来ていた興世王と和解させた。
武芝側はこれ以上事を荒立てれば「反逆罪」になる可能性がある。
興世王とて正式な武蔵守の着任前に、焼き討ち・略奪の事実がバレるとまずい。
将門の仲裁で、双方酒を酌み交わし、事なきを得たはずであった。

ところが武芝が率いていた後陣が、何故か経基の営所を取り囲んでしまい、経基は和解を疑って京に逃げ帰り、興世王と将門が謀反を図っていると太政官に奏上してしまうのである。

将門のもとに、太政大臣忠平から、事実を申上せよとの御教書が到着。
それを受けて将門は、常陸・下総・下野・武蔵・上野の5カ国の解文を集め、謀反は事実無根であることを証明させて言上した。

その後、新任の武蔵守・百済王貞連(くだらのこにきしさだつら)が下向する。
権守興世王は国務から外され、世を怨んだ興世王は下総国の将門の許に身を寄せた。
これが後々の将門の悲劇となるのだ。

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時を同じくして、常陸国府ではもう一つの紛争が起きていた。
常陸の住人で、元々は国の群盗でもあった藤原玄明(はるあきら)と、受領の藤原維幾(これちか)および子息の為憲との間に、公領からの貢納物の弁済を巡る争いである。

玄明は下総国に逃れ、将門がこれをかくまっていた。
ここでも何故かくまう気になったのか、いまいち分からない。
玄明は犯罪者ではあるが、義賊だったのかもしれない。

当然、維幾は玄明を追捕しようと、下総国と将門にたびたび通達したが、将門はその都度、玄明は逃亡したと答えていた。

唐突に将門は伴類(味方する百姓など)と共に、常陸国府を襲撃し、国印と正倉の鎰(かぎ)を奪い、維幾をも生け捕りにしたが、事が収まると国府を占拠せずに引き揚げ、維幾も京に送り返した。
将門の行動は、朝廷への謀反そのものだったが、どうやらこの時点で将門には謀反の自覚は無かったのは、襲撃後の行動からもみて取れる。

注目すべきは民衆の反応である。
国府を襲った将門の味方となる伴類も増える一方だったのだ。
京から遣わされた国司などは、私腹を肥やすことしか考えず、民衆を苦しめるだけの存在なのだから、それを撃退した将門を賞賛する声が多かったのも無理はない。

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その反応をみて、将門をそそのかしたのは、他でもない興世王である。
「一国を討つといっても国からの咎めは軽くはありますまい。同じことならば坂東諸国を攻め取って、暫く様子をうかがおうではありませんか。」

『将門記(しょうもんき)』によれば、これに将門も同意して、坂東八箇国より始め、やがては帝王の住む都を攻略せんと意気込んだ、とある。

京都攻略は謎としても、事態は興世王の言葉通りに進む。
939年の暮れ、将門は数千の軍勢を率いて下野国へ進軍。
下野国府には新任国司と前任国司が将門に再拝し、すぐさま印鎰を捧げ、地にひざまずいてこれを授け奉った。
次に上野国に向かい、受領から印鎰を奪って、受領を都に追放した。

その後、将門が坂東諸国の除目(辞令)を勝手に発令したとあるが、これがお粗末で、とても史実とは考えにくいのだ。
ただ、将門が坂東を制圧したこと自体は『本朝世紀』『日本紀略』など、確実な史料から確認することができる。

新皇即位について、『将門記』はこう語る。

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一人の巫女が現れ「吾は八幡大菩薩の使いである」と口走り、さらに「朕の位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る。その位記は、左大臣正二位菅原朝臣(道真)の霊魂が取り次ぎ、上書として捧げ奉るものである。先の八幡大菩薩は八万の軍を催して朕の位を授けるであろう。今、直ちに三十二相の音楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ」と告げた。
将門は位記を頭上にうやうやしく捧げ持ち、再度、礼拝を繰り返した。
武蔵権守興世王と常陸掾藤原玄茂らは喜び、自ら諡号をつくり奏上し、将門を名付けて「新皇」と称した。

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まず私が疑問に思ったのは、菅原道真は生前の極官は右大臣、死後の贈官は太政大臣であること。
もう一つは「諡号」というのは死後に贈られるものであること。

とても朝廷の儀式に精通しているとは思えない、要は田舎者に過ぎない階層の人間によって作られたもののように思われる。

次に除目だが、常陸や上総などは親王任国、と定めているのは現朝廷であるのに、わざわざ(遠慮して?)介を任じている点もおかしい。
任官なのに「叙す」など、位階に関する語を用いているし、「左大臣、右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史などすべて選任決定した」といっても、どこから人材を集めたのやら、という感が拭えない。
(「ただし暦日博士だけは適任者がいなかった」とあるが、これも意味不明。)


これに対し朝廷は、ただ手をこまねいていただけではない。
年が明けた940年元旦に、東海・東山・山陽道の追捕使を任命した。(山陽道は藤原純友の乱に向けたもの)
十一日には東海・東山道の諸国司に宛てて将門追討を命じる官符が出された。
「たとえ蝦夷・田夫・野叟であっても、将門を討滅した者が貴族としての位階に上り、功田を賜って子孫に伝えることができる」という一文は、坂東の者たちにとっては、この上ない餌となっただろう。
実際、将門を討伐して官位を高めた者の子孫が、後世「兵(つわもの)の家」として中央における軍事貴族の地位を独占することになるのである。

十四日、坂東諸国の掾八人が任じられ、追捕凶賊使とされた。
記録に残っているのは、上総掾に良兼の子の平公雅、下総権少掾に同じく良兼の子の平公連、常陸掾に平貞盛、下野掾に藤原秀郷、相模掾に橘遠保。

将門はこの頃、残敵を掃討する為、五千の軍勢を率いて常陸国に出動したが、貞盛たちの動静を掴むことはできなかった。
その後、伴類を皆帰国させ、残りの千人に満たない直属兵で朝廷軍と戦うことになる。

二月十四日の午後三時頃、最期の戦いが始まった。
将門が率いる軍勢は、わずかに四百余人。猿島郡の北山を背に陣を張り、待ち受けた。
はじめ将門は追い風を背に受け、弓射有利の戦いとなったが、やがて風向きが変わり、逆風を受けることになってしまう。(寒冷前線の通過に伴う気象の変化と思われる)

将門は駿馬を疾駆させ自ら先頭に立って戦ったが、これが命取りだった。
逆風で馬が足を止めたところを「神鏑(神の放った鏑矢)」に当たり、落命した。

将門の年齢ははっきりと分かっていない。
延喜三年(903)生まれとする説があり、それが正しければ没年齢は38歳。

将門がどこで決断を誤ったのかは、私にも分からない。
坂東王国の具体的・大局的プランが将門に無かったのが悔やまれる。

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