二代の后 藤原多子
時は平安末期、平氏が栄華を極める兆しが見え始めた保延6年(1140)に藤原多子は生を享ける。
実父は徳大寺(藤原)公能、実母は藤原豪子であったが、誕生間もない頃から藤原頼長、徳大寺幸子(多子の伯母)の養女として育てられた。
久安4年(1148)に頼長が、娘を近衛天皇の元へ入内させる旨、鳥羽法皇に奏上し、認可を受ける。
入内に際して必要となる諱は、儒者や陰陽師に決めてもらうのが、当時の慣例であった。
ここで初めて「多子」と名付けられ、従三位に叙せられる。
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当時は正式に内裏に入内若しくは出仕し、官位を賜る際には、諱が記録されている。
例としては、紫式部は一条天皇の后・藤原彰子の一女房に過ぎず、諱は無かったのに対し、紫式部の娘の大弐三位は後冷泉天皇の乳母として従三位に叙せられており、諱は賢子という記録が残っている。
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翌年の近衛天皇の元服に合わせて入内が予定されていたが、頼長の父・藤原忠実の正室である源師子の逝去によって元服の儀は延期となる。
久安6年(1150)4月、近衛天皇の元服の儀は滞りなく行われ、同年10月に多子は入内し、女御となる。
近衞天皇12歳、多子11歳の、まるでお雛様のような婚儀であった。
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ここで思いもしなかったライバルが現れる。
藤原北家中御門流出身の伊通が、20歳になる娘の呈子を忠通(頼長の養父・小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣として一首が選ばれた)の養女とし、近衛天皇の女御に、ゆくゆくは中宮の座を狙わんとして、入内を画策する。
驚いた頼長は直ちに多子の立后を鳥羽法皇に求めるが、法皇は明確な返答を避けた。
年が明けた2月、呈子が従三位に叙せられ、入内が間近に迫ると、頼長は「多子より先に呈子が立后したら、自分は出家遁世する」と駄々をこねる。
平安時代にはよく使われる手である。
混乱の末、3月に多子は皇后に叙せられ、待ちかねたかのように4月に呈子が中宮となった。
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病弱だった近衛天皇は、久寿2年(1155)についに崩御した。
多子は近衛河原に幽居した。
保元元年(1156)、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに、保元の乱が勃発、崇徳院側に付いた養父の頼長は敗死するが、多子の実の姉・忻子が保元の乱の勝者である後白河天皇の中宮となっていた関係で、多子は皇太后として地位を確立していた。
保元3年(1158)、統子内親王が後白河天皇の准母として皇后に冊立されたことにより、多子は太皇太后となる。
近衛天皇の後は、後白河法皇の長男、守仁親王が二条天皇として皇位を継いだ。
実の親子でありながら、後白河と二条は疎遠であった。
平治元年(1159)、ついに主導権争いが乱にまで発展する。
乱勃発直後は後白河の寵臣である藤原信頼が主導権を握るが、二条親政派は平清盛を味方に引き込み、その画策によって清盛の邸である六波羅への二条の行幸を実現させ、信頼は一気に賊軍となった。
結局は平清盛を擁する二条親政派が勝利し、後白河院政派は壊滅した。
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永暦元年(1165)正月、二条天皇の強い要請により、多子は再び入内することとなる。
多子は21歳であった。
前例無き再入内に諸卿は反対したが、二条天皇は「天子に父母なし。(後略)」と言い放ち、諸卿を黙らせた、と平家物語に記されている。
一方で、多子が入内したのは、平治の乱終結直後であり、鳥羽・近衛両帝の後継者であると主張するという、後白河側を牽制する為の政略結婚であったという見方もある。
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平家物語には「大宮(多子)御手習のついでに、うきふしに しづみもやらで かは竹の 世にためしなき 名をやながさん(近衛帝崩御の悲しみの時、出家を遂げなかったので、今こうして世にも例の無い憂き名を残すことになってしまった)」と嘆いたとある。
心ならずも、後宮の麗景殿に入った多子は、二条の寵愛こそ深かったが、「ひたすらあさまつりごとをすゝめ申させ給ふ御ありさま也」(平家物語)と書かれているのは、唐の玄宗皇帝と楊貴妃を描いた『長恨歌』の一節
芙蓉の帳暖かにして春宵を度る
春宵苦だ短く日高うして起く
此れ従君王早朝(あさまつりごと)せず
と対比し、あたかも多子の内助の功を強調するが如きである。
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永万元年(1165)7月、二条天皇も23歳という若さで崩御する。
多子は同年12月に出家した。
多子の人となりについては、書・絵・琴・琵琶の名手であり、父方の徳大寺家は西行が出家前に仕えていたことで歌壇の中心的存在、母の豪子が藤原定家らを輩出した御子左家の出身であることから、両親の文化的素養を受け継いだものと思われる。
更に、多子の周囲に仕えていた者も、藤原清輔や平経盛など歌人としての評価が高い。
数奇な運命に翻弄されながら、品位を落とすことなく生きた多子は、二人の帝の菩提を弔いつつ、建仁元年(1201)62歳で崩御した。
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