世界を信用しているか?どうかの話

自己開示力高いね!って言われた

noteを読んでくださった人から、自己開示力高いね!って言われました。
わたし的には褒められたというニュアンスで受け取っているんですけど、たぶん合ってると思います。
その時に、「なんでだろう、、?世界を信用しているのかな、、?」と分析いただきまして、その辺についてちょっと考えたので書いてみます。

実は、学校の先生やってたときは、教育界アカウントとして別のアカウントを動かしていたのですが、そちらのほうが今は放置気味です。
それなりに今も閲覧されているっぽいので、しばらくそのままにして、気が向いたらまた記事追加しようかと思います。教育界に何かしらの還元はしたいですね!

というわけで、noteはずっと放置してたこちらに移行してみたんですが、誰かに読んでもらうことが主目的ではないです。文章化することが私にとっては結構大事なプロセスなので、毎日ジャーナリングしてますが、書き殴りメモの状態なので、ジャーナリングで溜まったモヤモヤとか、新しい気付きとかをまとめるというプロセスを経て、自分自身に向き合っていきたいです。自分のアクセスすることの重要性を今は実感しています。
たまたま見つけて最後まで読んでくれたら、ぜひフィードバックをもらえると思考が深まるので、とてもありがたいです!気が向いたらお願いします。


「世界を信用している」のかどうか

その方からは、「世界を信用しているのかな?」と言っていただきましたが、世の中の人をみんな信用しているとか、自分はどこでも大丈夫とか、そこまで思うほど自己肯定感は高くないし、人間を信用しているわけではありません。
でも、その方に「自己開示力高いね」と言ってくださった方に対して、イコール褒められた!って感じるくらいには、その方のことは信用しています。
というか、わたしは自分を受け入れてくれる人たちのことは信用しているし、そういう人たちとしか関わりを持ちません。
そういう意味で、わたしの世界はものすごく小さくて、狭い世界なので、わたしはわたしの世界を信用しているんだと思います。

逆に言えば、わたしには、たくさん受け入れてくれる人たちで世界が構成出来るくらい、信用している人がいるし、そうではない、世界の外側の人たちのことは、眼中にないです(笑)


わたしの性格は、親しければ親しいほどよく分かるように、極端です。
とてもオープンな一面の方が前面に出ますが、それは、信用している世界での話で、知らない人たちばかりの世界では、仮面つけて猫かぶって生きています。一方で信用している世界では、信用しすぎて、壁を超えて失礼なことを言っちゃうくらい好き放題生きてて、それはそれで考えものですがね(笑)


実は人見知りな一面もある

え、嘘でしょ?と言われますが、転職を機にわたしの新しい一面を知りました。
わたし、人見知りなんです(笑)
自分でも結構意外な一面でした。

そういえば、学校にいた頃、わたし、生徒の目を見て授業なんて、最後までできませんでした。そういえば・・・くらいにしか当時は意識していませんでしたけど・・・
授業は大好きだったし、楽しかったけど、最後まで苦手でした。
自分らしい授業って、あんまりできなくて、いつも悩みながら、たくさん苦しんで授業をしていました。
むいてないなあ・・って、いつも思っていて、授業、結構きつかったです。
(でも楽しかった!という感情もあるから矛盾もしている。どっちも嘘じゃないです。それに、生徒たちがたくさんの思い出を語ってくれたので、少しは良い授業もできたかな?って思ったりもします。正解はきっと無いんでしょうしね。)

人見知りというパーソナリティは自覚していませんでした。人前で話すとか、結構大丈夫だと思っていました。
たぶん、狭い世界で生きていたからです。
出会う人って、生徒か、先生か、保護者か、教育関係の業者(とか行政関係者)か、趣味のフィールドでは水泳関係の人だったので、いわゆる、自分の世界(フィールド)ですよね。自分の世界の中では、すごく、のびのびと生きていました。

人見知りというパーソナリティに気づいたのは、転職の時です。
転職に向けたプロセスの過程での面談や、入社当初に社員の方との話をする中で、全く違うフィールドだからなのか、すごくすごく、すごーーーく(笑)緊張しました。転職してすぐの頃も、毎日緊張していました。
自分がどうジャッジされるのか、不安だったんだと思います。
これまでの世界では、ある程度評価されてキャリアを積み重ねてきたし、キャラクターみたいなものは出来上がっていたので、学校の世界なら異動しても新しいメンバーに出会っても、捉えられ方がなんとなく予想できましたが、新しい世界ではそれがないですからね。
だから、新しい世界ではとても緊張するんだな、ということに気づいて、以降、やっぱり特に初対面の大人と話す時は、それなりに緊張する自分を自覚します。
(でも教育関係者は別かな。1対1なら生徒に対しても緊張しませんね。やっぱりそれなりに自信もプライドもあるんだと思います。傲慢ですけどね。)

こういういろんなことを振り返ると、自分を無条件に信用しているわけでも、世界を無条件に信用しているわけでもないんだと思います。
常に、揺らぎながら、迷いながら、走って止まって、振り返って、生きてきたように思います。


成長をさせてもらった11年間の教員生活

そうやって振り返っていくと、11年間教員をやった中で、止まっていた時間ってそんなになかったように思います。
走り続けて、走り続けて、走り続けて、たくさん迷って、応援してもらって加速できたときもあったし、後ろに引っ張られて戻ったり振り返ったりしながら、でも、常に変化してきました。
結構新しいチャレンジを繰り返し、1年目も、11年目も、それなりに「これやった!」って言えることがある日々を毎年過ごせたんだなあ、としみじみします。

改めて環境と出逢いに感謝だなって思うことだらけで、本当に愛おしくて、大好きで、最高な毎日を過ごせていたんだなって、本気で思っている自分が、結構誇らしいです。
苦しかった日々もたくさん、たくさん、たくさんあったけど、その度に成長させてくれる環境と人たちと、そして成長できた自分がいました。

大学生までは、私結構ネガティブだし、世の中に不満だらけで(反抗期!笑)、いつもいつも不機嫌でした。
自分のことも大嫌いだったし、最近仲良くなった人は信じられないかもしれませんが、希死念慮に覆われていた期間もあります。自己肯定感も、恐ろしいほど低かったです。
世界を信用しないどころか、世界が、本当に本当に、大嫌いでした。

生徒たちとの日々は、本当に、教えることより教えられることのほうが多かったし、11年間、学校にいたからこそこんなに成長できたんだろうなと思っています。
生徒たちには感謝だし、今も繋がっている先生や生徒たちがたくさんいることが、嬉しくて、本当にありがたいです。
生徒のこと、本当にリスペクトしています。
彼らとの日々が、ただなんとなく、ダラダラ流れに任せて過ごしてきたわたしを、転職しよう!と決意させたんだと思います。
間違いなく、生徒たちのポジティブな姿勢に刺激を受けました。


素直に気持ちを話せる「場」の力

学んだことや気づきがたくさんあり、日々、じわじわ変化していることを実感する毎日ですが、最近、研修を受けて実感したことがあるので、ここに記録しておきます。
世界を信用しているか?の話につながるような。

会社の研修で、「場づくり」に関わる研修を受講しました。
すばらしい研修なので、ちゃんと記録したいですが知財的な部分もあるし、身バレもするので(笑)、割愛します。
知られて困る内容は何も無いですけどね。

言いたいことは、「どんな経験でもわたしの経験全てが糧になって今のわたしがある」ということと、「初対面の人たちと世界を共有できた」ということを肌で実感したということです。
2日間の研修のうち、初日はすっごく、すっごく緊張していました。
初対面の人だらけ。何やるかもあんまりわからない。不安。
ドキドキ、ワクワク、楽しみ!と思えたのは、担当講師の方が知り合いだったからです。楽しいよー!って事前に言ってもらえていたので、不安もありながらも前向きに臨みました。空間にも慣れていました。レジリエンスも十分でした。
が、当日やはり、共に受講するみなさんと対面すると、とってもとっても緊張していました(笑)

でも、2日間の研修を終えたあとには、すごく共感度も親近感も共有度も高くて、別れ難いくらいの関係になっていました。
わたしも話したいことを遠慮なく、素直に、ガンガン話せたし、どんなこと言われても受け止められるマインドが出来上がっていました。
「場」の重要性を知ったし、そういう場を作る1人に自分がいたことに感動しました。

多くの要素が絡み合って、この状態が実現していたとは思います。そういう場をつくりだすには、その場にいる全員がそれぞれ大事だと感じました。
例えば誰か1人でもその空気をぶち壊すような人がいれば、一瞬でネガティブな場になるなあって。どうやって場を作っていくか、ほんと端っこだけなんだと思いますが、素晴らしい学びを得たと思います。

余談ですが、受講者の1人が「学びのプレゼントとして会社から送り出してもらった」と言っていたのが、とても印象的です。
素敵な言葉だなあ、と今でも心に残っています。
素敵な人たちに出会えました。

この時出会えた人たちは、全く知らない人だったのに、すぐ信用できる「世界の人」になったんです。なぜでしょう?


自分を受け入れてもらえていると感じられるかどうか

結局のところ、ここに行き着く気がします。

その研修では、ファシリテーターの方が「あなたたち全員の言葉を、どんな形であっても受け入れますよ」という姿勢を終始とってくれていました。
だから他の参加者にどう思われようが、最終的にはこの場に自分がいても良い、という安心感に包まれたのです。

それぞれがそう思えたから、それぞれが自分を解放して、のびのびと過ごせました。
変なバイアスもとれるから、自分も受け入れ体制になれました。
相手もそうだったので、信用できたんだと思います。

この世界にわたしが存在していて良いという安心感を得ることが、世界を信用することにつながるように思います。

わたしは、元々自己肯定感がめちゃくちゃ低くて、自分はカスみたいな人間だという自覚があるし、自分より優れた人がたくさんいることを身をもって知っています。
頭も良くないし、器量も良くないし、性格も捻くれているし(笑)

そんなわたしでも、かつてのような希死念慮をいまは持たなくなったのは、学校の教員として過ごした11年間のおかげだと思います。
どんな生徒にもいいところも悪いところもありました。

いい子 もいないし
悪い子 もいない。

それを目の前でたくさん見てきて、それが、自己肯定につながりました。
わたしも、どちらでもない、と。

教員になって、いろんな生徒に出会って、どんな子にもそれぞれに良いところがあることを知って、自分もそうなのかと思えると、自分のことも少しだけ好きになれました。
毎日、くだらないことでたくさん笑わせてくれて、日常の小さな幸せを教えてもらって、毎日が楽しくなりました。
傷ついたり、傷つけたり、心の微細な動きにもたくさん触れて、たくさんの感情を学びました。
泣いたし、泣かせたし(笑)、泣かされたし、笑ったし、笑わせたし、笑わされたし。怒りや不満も全部含めて、心が大きく育ったと思います。

学ぶことだらけ、考えることだらけ。


これがわたしが世界を信用している理由のように思います。

結局良くわかんない文章にしかなりませんでした笑

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