宗教の秘密 1

宗教の理解への奥義、あるいは存在意義について書きます。

おそらく現在において宗教の一番の問題点とは科学との矛盾にある思われます。科学は現象についての説明において宗教とは比べモノにならない整合性、論理性を持っています。科学が発展する中で、古くから続く多くの宗教の論理性を失わせたともいえます。

宗教を持つ人々は近年科学との矛盾において摩擦を起こしがちです。

アメリカのような先進国においても、進化論を信じていない人々が非常に多かったり、科学者が宇宙の始まりについて神がいるかいないかで議論になったりします。

宗教は科学との矛盾について対応できません。そして、宗教を信じる人々はときにどちらを正しいとするのかを選ばなければいけないような気持ちになります。なぜなのか考えてみましょう。

まず宗教も科学もどちらも世界を説明するための話であることを思い出してください。ではその本質的な違いは何でしょうか。

以前私が、「科学的な誤解」というページに、科学は絶対に確実といわないから発展し続けるということを書いたのですが、宗教を語るときにもこの点がまさに奥義を探る手がかりとなっています。つまり、逆に宗教は何かを絶対に確実といわなければならないから科学と衝突するのです。

ではなぜ宗教は確実なものを必要とするのでしょう。これが宗教の完全な存在意義となるわけですが、即ち「宗教とは”信じるため”に存在するもの」なのです。当たり前のような響きをもつ言葉かもしれませんが、特に宗教を持たない人々に理解してもらうためにはとても重要なことです。

つまり宗教を疑う人々は科学との矛盾について納得のいく説明を求めますが、かといってそういった人々が科学を信じているといえば、それはまったく科学的な態度でないといえます。科学的に証明されたことというのは多分今のところ正しいというのが本来の科学的な態度です。相対性理論でも進化論でもまちがっているかもしれないという姿勢を常に心の片隅で持っているのが正しい科学に対する接し方です。つまり宗教を疑う人々が科学について正しく接しているならば、信じるべきよりどころのない不安な精神になりうるということです。

そして宗教の物語の多くの科学と矛盾すべき点は「信じるために」存在しているというところに起因しています。

即ち人々が信じるために、神や偉大な先祖は、人々より強い力や優れた知性を持ち、時に人の持たない能力を持ちます。

そして一度できた物語を簡単に変えることはありません。なぜなら話がコロコロ変わるようなものを誰が信じるでしょうか。この点はまさに科学の対照的なところであり、もっとも矛盾が生じやすいところです。そして話が変わらずに長く続けば続くほどその宗教は人々が信じるに値するものと信奉され、その間に発展した科学との矛盾も大抵は大きいものとなっていきます。

このように、考えてみると宗教は他にも「信じるため」の様々な機能をそなえている。信じるために時を経ても変わらない厳格な教義があり、大きな権威や立派な建物を持ちます。また信者が増えたり、教育や文化の中に取り込まれることでさらに信じるための機能性を増していきます。最後に、(大抵は神の名で)人の力を超えた存在をもつのです。

そして人を超えた力(神)により作られたゆえに人の能力で疑うことを否定します。それゆえ宗教においては、「人が作った、そして作りつつある」科学は神を否定することは許されません。それは宗教自体が信じるために作られたものとして内包している一番の防衛システムと言えます。

結論として、宗教にとって大事なことは「信じること」であり「正しいこと」ではないのです。信じるために正しくあらねばならない、これが宗教を固く信じている人と会話ができなくなる理由です。

つまらないことのようですが、「宗教は人が信じるために存在する」実はこれが宗教の一番の存在意義です。

つづきをまた書きます。

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