体罰はありかなしか

絶対禁止と言われたり、(愛のむち)と言われたりする体罰についてです。

体罰を肯定的にとらえる人たちは体罰を受けてきた人たちが中心になります。彼らは精神衛生上、自分が不快な思いをした過去を肯定的にとらえることが必要になりますので、当然の考え方です。そうでなければ、体罰を行った相手に対して、恨みながら怒りを腹にため込んで生きていかなければならないからです。脱線してますが、人間の持つ「忘れる」という機能は大事です。

社会にとって、教育において、人が条件付けされた行動をとるように躾られることは大事なことです。そのためにある行動を避けるような不快感として体罰はもっぱら使われるわけです。

またもうひとつに、現実社会では人は人に殴られることがあります。さらに殺されたりもするわけです。もちろんあってはならないこととされてはいますが。教育段階でどうしたら人が自分を殴ろうと思うのか知ることは悪いことではないと思います。

ところで、犬などを教育する時には、その不快感として、体罰ではなくただ怒るということで十分だとされています。犬は教育している人間の感情が悪化していればそれだけでその行動を避けるようになる。怒鳴っていたり、手振りなどで十分怒りなどが伝わるからです。

つまり、教育において体罰の代わりとして大事なのは怒りや悲しみなどの感情を伝えることです。

ならば人間も同様なのでしょうか?ところで、人にはいわゆる自閉症とまでは言わないまでも自閉的な傾向があったり他人の感情を読むことが苦手な人が存在します。

犬は、どうでしょうか。犬は実は人より人の感情をおおざっぱではあるが読むことができます。どうやるか?嗅覚を使います。人は緊張すると明らかに体臭が変わります。嗅覚の鋭い人であればわかる人もいると思います。これを犬は人の百倍とも万倍ともいわれる嗅覚でおおよそ完璧に読めます。犬よりも鋭い人の感覚である視覚でたとえれば、人が怒ると体が緑色になったり、悲しむと紫色になったりするようなものです。これであれば誰(犬)でも分かります。

ところが、実際はそうではなく、人の場合表情が読めなかったり、声のトーンで察せないと怒りが伝わりません。こちらの感情が伝わったかどうかを確認する反応も人によって、わかりづらかったり、さらにこういった反応をすれば教育者が満足するということを学んで行動する人間もいるのでさらに難しくなります。

ここまで、体罰に肯定的な意見を持っている感じで書いてますが、実はひとつ大きな問題があります。

体罰は、間違っている相手に対して行うものです。そして体罰はつまるところ暴力です。暴力だから問題だというのではありません。正しく使うことができるとすれば、現実社会に存在する暴力のシミュレーションだと考えることもできます。

というわけで、問題は使う側にあります。体罰とは「間違った事をした相手に使う暴力」です。そして「間違った事をした相手に使う暴力」は気持ちがいい、すなわち快感だということです。暴力が嫌いという人であっても、例えばコンビニの前で入る人の邪魔になりながらタバコを吸ってうんこ座りをする人々を殴ったら気持ちいいだろうな、あるいは隣の席でOLに執拗にセクハラをしている会社の上司を殴ったら気持ちいいのでは、ということは誰でも想像できると思います。

つまり、体罰とは、自分が教育している人間の間違いに対するフラストレーションを暴力によって解消することであり、それは人間の自然な反応であり、快感であるわけです。そしてこの快感である体罰をそうとは意識しないで(愛のむち)などと言ってしまうのは危険以外の何物でもありません。

そして、その快感を自分の中で肯定してしまえば、自分でいくらでも用いることができてしまいます。しかも相手はたいてい体罰を振るわれる側の方が知的に肉体的に精神的に弱い人間です。

やはりちゃんと用いるのであれば自分が今、その教えている人間に体罰を与えてストレスを発散したことについて、罪悪感を感じるぐらいでちょうどいいと思います。罪悪感というブレーキシステムが必要だと思われるのです。

というわけで結論としては、体罰は教育にひょっとしたら必要かもしれないけれど、肯定すべきものではない。通常は、思い出話に「子供の時、一回だけ親父に殴られたことがあってさー」とか語られるくらいでちょうどいいと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?