言葉と意識

言葉は世界を分けるものだと昔の偉い人に言われております。

例えば「犬」という言葉は世界の「(犬)」と「(犬)でないもの」を分けます。「走る」であれば「(走る)」と「(走る)でないもの」に分けます

では、だれがそれを分けるのでしょうか。よくよく考えてみれば、例えば狐や狼を犬だという人がいたり、そうではないという人がいたりします。また、時と場合によって変わったりもします。

つまり分ける人は今の自分なのですが、どうやってこの広大な世界を仕分けましょうか?

ここで世界がどこにあるかということに気づくと思います。結論からいうと世界とは記憶のことです。言葉とは人の記憶を分けているのです。

私たちの感覚器官の記憶があらゆる記憶の中から(犬の見た目……姿形や内臓や足跡なども含めた色や形など)(犬の出す音……鳴き声、走る音、ひっかく音などの音程や音量など)(犬の匂い)(犬の手触り)etc……を分別して「(犬)」と「(犬)でないもの」を分けています。

記憶につける目印として言葉は機能するのです。なので言葉というものは人が一人のときにも存在しえます。一人の時には今の我々の言葉の主役である声という形をとる必要はなくなりますが。

記憶の目印である言葉により、人の記憶は整理されます。たとえば赤い三角形と赤い円、青い三角、青い四角形、があるとき、言葉で整理すると赤い四角形や青い円というものも「ありうる」というのを記憶に残したり、あるいは他の人に伝えたりすることが容易になります。そしてこの「ありうる」ということこそ人の「想像力」と言われるものです。

そして、人の精神活動とは欲望を満たすためにこの記憶を分別する作業をすることのようです。分別する際に使うのが記憶である以上、おそらく記憶に関する判断で一旦再び思い出されるもの、頭の中での再体験を伴うものをいわゆる意識的な活動、伴わないものを無意識的な活動とされていると感じられます。

 

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