リスとかの気持ち
その女の人は、若いころ「死にたい」という言葉を発することがかっこいいような気がしていた。何かちょっとでも気に入らないことや、残念なことがあれば死にたいと言っていた。
ちょっとロミオとジュリエットのようなロマンチックな人になれるような気もするし、昔の武士のように責任感が強いようにも見える。また、軽い気持ちで受け取られれば笑いになり、重く受け止められれば心配される。いずれにせよナルシスティックな気持ちを満足させながら人の気を引けるのだ。
そんな時期に、学校で完全自殺マニュアルなんて昔の本が流行ったりしていた。その本を買って、持っていることで死にたい気持ちを持ってるんだ、と周りに見せつけることができるのだ。
ある日、いつものように「死にたい」と言ってみたところ、周りの人たちは「また、いつものやつが出た」とか「はいはい、それで」とかわいそうな自分に対するリアクションがまるで面倒くさいものに対するものに変わっていっていた。
何とかしないと思った。
とはいえ本当に死ぬような度胸もなければ、意思もない。そんなものはいづれ周りの人にもそれは、わかってしまうことなのだ。
やはり死にたいというのがほんとではないと思われている。今までの死にたいというアピールが嘘だったばれるのは実にかっこ悪い。何とかリアリティをつけないと、と考えた。ちょっと自殺に失敗した跡を自分につけてみることにした。
首を吊るのは一気に死んでしまいそうだ。電車は確実に死ぬ気がするから、車に惹かれてみようと思った。道路に出て、あらためて走る車をみた。思った以上に早い、本当に怪我ですむのだろうか、恐怖しか出てこない。結局、道で車を眺めて帰ってきた。
部屋に戻り机の上をふと見ると、文具立ての中のカッターナイフが目についた。これだと思った。さっそく、ナイフの刃を腕にあててみる。刃を立てて刺すとチクッと痛い。刃を当ててそっとスライドさせてみると、皮膚がすうっと切れ、わずかに血がにじむ。大した痛みじゃない。しかし、流れる血をみていると自分は今まさに死のうとしているという臨場感が湧いてくる。
そういえば闘牛士の持つ旗の色が赤いのは牛を興奮させるためではなく観客を興奮させるためだという話を思い出した。きっと赤い色は血の色を連想させるのだろう。だとすれば、血そのものこそが人をほんとうに興奮させるにちがいない。
切り傷の鈍い痛みの中で、腕から流れる真っ赤な血を見るという行為のもたらす高揚感は素晴らしいものだった。まさに自分がロマンチックな場面にいる証拠がこの血液であり、この痛みなのだ。
「死にたい」という話に対して呆れたり、面倒くさそうな表情をする周りの人たちの対応に悲しくなったとき、自宅の部屋に帰り、それをするとすべて忘れさせてくれる。
時が経ち、周りの人も変わっていき、死にたいということをことさらに人に言うことが恥ずかしいと気づく年になっても、腕を切るのはやめられなくなっていた。やがて、切りつける部分もなくなり、傷は右も左も手首から肩口まで達するようになっていた。いつしか、その人は夏でも長袖しかきれなくなっていた。彼女はもはやその傷口には何の意味もないことが分かっている。
やがて、彼女は将来彼氏の前で服を脱げなくてフラれたり、傷が原因で風俗店の面接に落ちたりするのですがけれどもそれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?