宗教の秘密 2

1で宗教は信じることにその存在意義があるということを書きました。

信じるために「人を超えた存在」を登場させることで、「人」からの反論を封じることができるということがキモになっているということでした。思考停止にも見えます。いかに論理的な反論をしようとも、人間の論理では理解できないという理屈には太刀打ちできないのです。もっともそれを言うことのできる「人」はいないはずという問題もあります。

では、さらに科学との違いを見ていきましょう。

まず科学も宗教も世界を説明するために作られた話です。科学についてはすぐにわかることだと思います。科学は「世界について知りたい」という気持ちでできています。結果的に世界を説明するように出来上がっていきます。

次に、自然への畏怖、死への恐怖など、何かわからないものが宗教と結びついていることを考えてみてください。そして何か分からないものに対する対応方法の違いこそ宗教と科学の違いになります。分からないものに対して科学は理解しようとします。

宗教はどのように対応するのでしょうか。まず、宗教も科学と同様に人が作ったものです。ということは人の目的があって作られているということです。科学についていうと、上記のように、世界について知るためということになります。このことは抽象的な概念を理解するうえでとても大事なことなので覚えておきましょう。このことについても、また別の機会に書きます。

分からないものについて、人々にとって重要なことはそれが恐怖をもたらすということです。人は恐怖を払拭するために信じるものを必要として宗教を作りました。つまり宗教は「世界はこうなっていると信じたい」という気持ちでできています。

ここで、人が宗教の中で特に信じたい部分とはどこでしょうか。これは人の感情(あるいは願望と言ってもよいかもしれません)に則した因果の実現についての説明です。有名な宗教で考えても、キリスト教などは旧約聖書では生前の行いにより審判の日に神が裁きますし、仏教やヒンズー教では行いによって生まれ変わる物が変わっていきます。新興宗教なども大抵は徳(言い方は様々でしょうが)を積むことで将来、あるいは死後に見返りがあり、罪を犯すことで罰が与えられると説明します。

このことは精神衛生上、人に良い効果があるように思えます。つまり人に信じたいと思わせる内容になっているということです。宗教は信じるために存在するからこそ、信じたい内容になっているといえます。

ところが、そこで問題がでてきます。同じ出来事があっても、人によって感情は異なります。誰かの恋愛がうまくいった時に、一方、恋仇は失恋することもありますし、誰かが死ぬことで喜ぶ人と悲しむ人がいたりします。

そこで、宗教は出来事に対して人によって異なる感情について解決するべく、基本的に人の感情に則して説明する因果をまとめようとします。簡単にいうと普遍的な因果(神の意志)があるかのようなことを言います。もちろんその普遍的な因果もまた人の感情を抽象化したものではあります。世界全体を見ている人「⇒神」の感情が因果を実現しているのです。それでは普遍的な因果を持つことは宗教に何をもたらすのでしょうか。

宗教は世界を説明する方法だということを前に書きましたが、説明する方法ということは人から人へ伝えるためのものです。ということはそこに社会がある、あるいは社会がつくられようとしているということです。普遍的な因果によって世界を説明し、そしてその内容は基本的に人の感情に則して人が信じたい内容でできている。このこと自体が社会のルールを決め共同生活を成立させる要素となります。

すなわち宗教が普遍的な因果の説明をするのは社会の維持のためです。

また続きます。

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