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煌めき[二次創作SS]

(MIU404本編後を想定した短い二次創作です)


煌めき


あ、と思ったときには、言葉がすがたを晦ましてしまっていることがある。

小学生の時だった。住んでいた団地を出て、海沿いの工業地帯近く、アパートへ引っ越すことがあった。経済発展期に一気に建てましたという感の強い、味気ない団地だった。見どころなど一つもない。それでも、幼少期のほとんどを過ごした家だ。住むところが変わるということがにわかに理解できず、毎日暮らしていた部屋をがらんどうにして出ていくことは、ひどい裏切りに思えた。幼かった伊吹は、かけていたカレンダーが外され妙に狭くなった壁に頬ずりをして、心中で必死に謝った。置いていってごめん。それから、ゴミに出されたクッションを見て泣いた。自分が不甲斐なかった。毎夜抱きしめていたくせに、薄情もの。可燃ごみの袋につっこまれたそれがひどく悲しげに見えたのだ。

やがて引っ越しの日は来て、段ボールはどんどんトラックに吸い込まれ、気づいたら部屋が空っぽになっていた。その時だった。あ、と思った。頭がくらりとする。この時だ。今、この瞬間には二度と戻れなくて、次に踏み出す一歩が、何やら大きな時間の――その時は人生という言葉を知らなかったのだ――流れの中で一滴、とてつもない不可逆となることを確信した。その刹那の心細いこと、胸が痛んで、恐ろしさに足が竦む感覚には、まったく言葉が追い付かないのだ。日頃から口が回る方ではない。言い負かされては乱暴な単語を振り回すことしかできないことばかりだ。そんなことはわかってはいたが、なにせ、ここまでの乖離は初めてだった。胸の奥がずきんと痛んで、手の先まで痺れが走る。それに見合う言葉がちっとも浮かばないことに、恐怖を覚えた。言葉がないと、誰にも伝わらない。その時伊吹は、泣くことさえできずに手を引かれていった。声になりそこなった情動は、この世界に存在しなかったかのように何の爪痕も残さなかった。以来、大人になった今でも時々、この感覚が去来することがある。



「あ」

それがやってきたのは、駐車場にまだエンジンの名残が響いている時だった。正確には伊吹の耳の中でだけ木霊している、この世にはもう存在しない音だ。それを知っている。思い出になったばかりの音が鼓膜のあいだで静かになるのを待つ間、伊吹は密行中にあったことをざっと思い出す癖があった。それから、一日中つけて身体に馴染んだ装備の存在を自分の四肢から切り離す。一種の儀式だ。今日も無事に終わりました。お勤め、ご苦労サマ。その日も同じようにするつもりだったのに、一瞬の呼吸の隙もなくあれが襲ってきた。

じん、と痺れる指先。心臓をぎゅうと絞られたような痛みに、言葉を全く伴わない感情が、伊吹の胸を支配した。

「あ?」

助手席のドアが閉まる。志摩の頭が車体越しに覗いた。

「うん?」

「いまなんか言いかけただろ。あって」

「ああ、うん。あってなっただけ」

「なんだよ、なんかあるなら言えよ」

志摩はあくびを嚙み殺していた。朱色のバインダを弄んで、車のロックを確認する。自分でも無意識のうちに、鍵を閉めていたらしい。伊吹はああとかうんとか生返事を絞り出して、左手を何度も握った。痛いくらいに切ない感電は、まだ人差し指の先に残っていた。

せつない。

それだ、と伊吹は思う。探していた言葉の、輪郭のかけらを拾った。切ない、せつない、セツナイ。たぶんそういう感覚。

志摩はせっかちだった。

「気持ち悪いだろ、言えよ」

「ええ、俺さあ、口回んねえから」

「回んなくても、なんかしら投げてくるのがお前だろ」

きゅるっと、とか。志摩は、その言葉をいうとき少し不服そうな顔をする。

「きゅるっとではない、絶対」

「なんか忘れものとかじゃないんだな」

「違う違う」

署に向かって歩き出す。駐車場の電灯が、昨日の雨水を引きずった跡にすこし光った。

「なんかねえ、昔からあんの。うわっ! 今じゃん? って瞬間。ずっきーんみたいな」

「はあ」

「いやさ」

左手を揉みこむ。

「大したことじゃないんだけど」

わかんねーな。ヘラリと笑ったら、志摩は溜息をついて切り上げた。

「んじゃ報告書。それから引き継ぎ書」

引き継ぎ書。その言葉を聞いた瞬間に、三十余年すがたを晦ましていた言葉が、するりと指の間に残滓だけひっかけて流れていった。

離別。

別れ。

戻れない場所。

そういうキーワードが頭でちかちか瞬いて、伊吹は一瞬のはんぶんくらい、息を失った。

たとえば、音楽を聴いているときに、思い出す。

雨が降っている夜に、自分の匂いの染み込んだタオルケットに頭をつっこんで『ewe』を聴いた。昔はバンドミュージックが好きというと、やれロックの系統やら楽器のモデルやら、それから行った箱の数とかでマウントを取るやつらがいた。そういうことすべてどうでも良いのになと思いながら、好きな音楽だけを聴く。志摩はそういう奴らの態度を教養主義と言ったが、伊吹としてみれば争う気すら起きなかった。ギターを弾きこなしたことも、ドラムスティックを握ったこともないけれど、音楽が好きだ。それは感情を記録する。この曲の始まりは、夏の前の嵐みたいにギターがわあっと始まる。生ぬるい空気の中でざあっと降りきる大雨みたいな音楽。ボーカルは、うまいのか下手なのかよくわからない。伊吹には、歌っているというより、喋っているように聞こえた。その癖、言葉として爪痕を残さず、聞き終わるときにはギターとドラムと、それからただの人の声として終わる感じがある。それが、好きだ。じわ、と胸に滲む感情を追う。

記憶から匂いがたち昇る。たとえば、池袋北警察署の四階、廊下の匂い。煙草と消臭剤が混じっていた。

焦燥と無力感、果てしない迷子のような気持ちと、それを塗りつぶすように正義感があった。期待に応えたい、過去に報いたい。それなのに、足が縺れて走れないような日々。そういう感情が胸の底から染み出すように湧き上がって、ぎゅっと締め付ける。

未明から降り始めた雨が、イヤホンの向こうでアスファルトを打っていた。

ひとが――たとえば志摩が、どうやって記憶と向き合っているのか。それは、伊吹にはわからないことだった。彼が、寝息の響く暗い仮眠室にひとり起き上がって、息を整える姿を思い出す。冷静そうにみえても、感情を完璧に制御できる人などいないのだ。そして伊吹は志摩になり得ないから、彼の目で彼の過去を見ることができない。

そんな不毛なことを考えてしまうのは、自分と思い出の付き合い方について自問する機会があったからだ。主に、警察病院附きの精神科にて。伊吹さんは、どういうときに昔のことを思い出しますか?それは、度々見る悪夢とは、ちがうものですか?感情が噴出するとき、それはまるでいま起こった出来事に対する情動のように、荒々しく切羽詰まったものですか?

伊吹はそれらの質問に、まるで言葉をほとんど知らない赤子のようにつっかえながら返した。大抵の感情は、解凍するように蘇る。そのとき記憶の氷を解かすのが、音楽だ。否、音楽そのものがタイムカプセルと言ってもいいかもしれない。そういうことを、懸命に説明した。ただ、クルーザーの上でのことは違う。あの時の血の色は突然蘇ってくるのだ。それから、まるでいま目の前で潮風が志摩の体温を攫っているかのような恐怖に襲われる。それから、その時の真っ暗な気持ちと、頭の中で妙に冴え切った部分を支配する高温の怒り。靄がかかったように胸の底がじくじくして、視界の端で羽虫が踊っていた。それを、はっきり思い出す。そうしゃべり終えたとき、初老のカウンセラーは伊吹の両手を包み込んでいた。彼女の手は、暑くも冷たくもなく、まさに人間の体温という生ぬるさで皮膚の感覚を呼び戻した。そのあとに襲ってきた冷や汗と嘔吐感を思い出して、伊吹は目をきつく閉じる。

解凍した感情は当時の記憶の味をしていた。


「息を、しっかり吸ってくださいね」

肺に届いた空気は無味である。血の臭いが遠のくのを感じて、伊吹はゆっくり息を吐いた。お水、飲みますか? と聞かれて、咄嗟には欲しいのかわからなかった。ただ、脳みそを取り出して音楽で洗ってしまいたいと思った。記憶するためでない、蹂躙されるための音楽。思考や記憶の届かないところ、伊吹自身の手から離れた場所に、意識を連れて行きたい。走り込んで、足りなくなった酸素が奇妙なバランスを見つけるあの時のような快感を、もっと、強く、ここに。その欲望と一緒に、伊吹はもうひとつ、不思議な願望を得ていた。

志摩になりたいな。

自分ではない何かに頭を明け渡してみたい。そしてそれなら、相棒が良い。

志摩の世界が欲しかった。

「急に言われてもな」

志摩が、用紙から顔を上げずに言った。

「えーあるっしょ、志摩にも。オンリーワンってかナンバーワンみたいな曲」

同じように紙を見たまま喋ってみたが、堪えきれなくなった結局顔を上げた。斜向かいに志摩がいる。その肩にちょうど、ブラインドの隙からこぼれ落ちた夕陽が座っていた。伊吹は眩しくて目を伏せる。芝浦署の受付で密かに配っている、味気ないボールペンがインク溜まりを作っていた。

「そもそも、音楽を聞かない人も多い」

「でも志摩は聞くだろ」

「食い下がるな……何、もう飽きちゃったんですかー」

こんこんと突いて示されたのは「引き継ぎ書」だ。隊長から渡されたファイルには、勤務実態調査書と、自己評定書と、それから過去に携わった事件で、本部が立った数件を取り上げた所感書き取りが入っている。日勤の朝ぽんと手渡されたそれは、部内で引き継ぎ書の名を得て目下、機捜隊員の悩みの種となっていた。

「飽きてなーい……てか、最初から飽きてる。つまんない」

本当は名前が気に食わない。引き継ぎ書、というと、どうも次の異動で確実に四機捜がなくなる感じがして嫌いだ。伊吹はそこまで言おうとして、すんでのところで口を閉ざした。そのせいで生まれた微妙な間を、わざとらしく尖らせた唇で誤魔化す。志摩はまた紙面に視線を戻して、自前のペンを走らせた。

「面白いかつまらないかで業務を選ぶな。さすがにこれ、月末には出さないとやばいぞ」

「通常業務の報告書もあんのにねえ」

伊吹は恨みがましく用紙を睨む。飲み込んだ言葉が喉の辺りでわだかまっていた。

書類一式が引き継ぎ書の名を得たのは、機動捜査隊全体で人数調整と組織改変が行われると噂が流れているからだ。九月の異動を前に、一斉調査が入ったというのが署員の見方だ。伊吹は胸の辺りを摩った。すんと鼻を鳴らして誤魔化すのも忘れない。それら一連が、半分無意識の癖になっていた。

『現在の仕事に満足していますか』

――はい・いいえ

迷わずに丸をつける。

『今後のキャリアについて、重視する点は何ですか(記述解答)』

ちらりと志摩を伺う。くるりと小憎たらしい前髪の向こうで、両の目が忙しなく動いていた。文字を追っている。そこには何が書かれているのか。志摩は、今の俺たちを、機捜を、どう思っているのか。伊吹は志摩になれないから、彼の今もその先もわからない。

わからないなどと再認識しなくてはいけないほどに、わからないことが問題になったのは初めてだ。ひとの人生の意味も、今以外のどんな瞬間も、伊吹には届かないものであって当然だった。それを疑問に思ったことも、もどかしく思ったこともなかったはずだ。

「……バンドなら」

志摩が静寂を破る。ともすれば独り言のようなそれを、伊吹はちらと差し向けた視線で受け止めた。

「あー、お前の趣味ではなさそうだけど」

スマートフォンを取り出す。ぶつぶつと呟きながら親指で画面を捲る。ブルーライトに照らされて色を変えた彼の瞳を、伊吹は斜に見つめていた。

「でもさ、俺たち同い年じゃん?」

「なに」

「同じ曲聴いて育ったんだよなと思って」

志摩は一瞬返答に困って、

「……まあ、世代的な話なら、ハイ」

「んは、なんでちょっと嫌そうなわけ」

「別に……」

曲を探す志摩の指が止まる。

「ああ、これとか」

伊吹は椅子を滑らせて近づいた。志摩は嫌がらなかった。

音量を絞った彼の携帯が、ギターを鳴らす。いいね、と言おうとして、失敗した。感想を言わなくても、志摩は困惑しなかった。Aメロがジャカジャカと響く。肩が触れるくらいのところにいても、そこに言葉がなくても、志摩は文句を言わない。見慣れた彼の腕時計に、気に入りのペン。それから、柔軟剤がふわりと香った。ずきん、が来る。胸の内側から杵で殴るような感覚。電気が走って、指先まで痺れて、心臓がぎゅうと痛くなった。

寂しくて、切なくて、瞬間、呼吸が止まるような不安。

「なあ志摩」

相棒は、少し視線を傾けて続きを促す。

「志摩」

呼んでみたかっただけ。そういうと、志摩は正しく、

「やめろそういうの、てか近いんだよ」

と言った。



通報があったのは午前零時。志摩が居心地悪そうにするのも構わず、教えた曲を嬉しそうに歌っていた伊吹が、瞬時に表情を変えて無線を取った。火災の通報、という一言目に、引き締まったのは志摩も同じだ。

世田谷区某所、川沿いの住宅エリアから火の手が上がったという。現着して機捜車を降りると、煤けた灰の匂いがぶわりと襲ってくる。一足先に駆けつけた消防が、暗闇の中ランプを回して放水していて、現場は大方鎮火していた。これ以上火が大きくなることはなさそうだと見てとった野次馬が、川伝いに数人、携帯電話を構えて見物を決め込んでいる。志摩は腕章をつけた腕を掲げながら、その整理に当たっていた。

「はいはい、危ないから下がって。お話聞きますよ」

野次馬たちを一所に集めた。ちらと見やった背後では、上腕で鼻を覆った伊吹が、燻る炎を見つめて立ち止まっている。

「現場確認」

肩越しに声をかけると、相棒の首が小さく動く。からりと乾いた冷たい空気には、灰とビニールの焼けた匂いが充満していた。嗅覚の鋭い伊吹には嬉しくない現場だろうか。ただでさえ今日は、ひったくりの現行犯を捕まえに、駅前広場を疾走している。

現場指揮を行なう消防士に伊吹が駆け寄る。相棒の背を見届け、志摩は自分の仕事に取り掛かった。怪しい人影を見た、それは何時ごろですか。出火の瞬間を見た人はいませんか、そうですか。ご協力、ありがとうございます。それで、あなたは。早く帰せとい言い出しかねない人間を人相で選んで先に片付けたから、後に残ったのはおとなしそうな女性だった。真面目そうな人間をそれゆえに待たせるのは悪いと思いながら、志摩はあえて形式ばった聞き方をした。近くにお住まいですか? と尋ねると、ハンカチで口元を押さえた女は首を振る。

「家は駅の反対なんですけど、ここに、通ってて」

「通う?」

振り返った事件現場は、正面玄関のあたりが焼け焦げて、開け放したドアの辺りからちらちらと燻る炎が覗く。慌ただしく行き交う消防隊越しに煤けた外壁を見つめれば、そこには真っ黒に燻んだ十字架があった。

「教会」

「……日曜日の礼拝。たまに行けないこともあるんですけど、小さい時から通っていたので」

泣き出して取り乱すほどではないものの、馴染みの場所が焼け落ちたショックは大きいのだろう。女性は肩を揺らして、寒そうに身を寄せた。志摩は腰を屈めて、事情を聞く声を柔らかくする。

生死の境に真正面から双眸を覗き込むのが伊吹なら、言葉の微妙な角度と、それを陽に翳した時の反射で相手を推し量るのが志摩の手法だ。聞けば、かなり古い建物らしい。教会から派遣された今の牧師は丁寧な性格で、手入れは怠っていなかった。消火器も常備されていたと言う。出火元に心当たりはないが、顔馴染みの中に喫煙者はいた。厨房があって、油を使った料理はしないが、ガスは使っていた。女性の顔が一層曇る。クリスマス礼拝の後には大量の汁粉を作るのが恒例だったが、今年はまだ追加のガスコンロは出していなかった、と言ったところで、彼女はとうとう顔を俯けた。

「お汁粉?」

志摩は思わず聞き返す。女性は小さく頷いた。

「大きい鍋と、それからガスコンロもいくつか使って、お汁粉を振る舞うんですよ」

それは聞いた。志摩が聞き返したのは、クリスマスという西洋のイベントに似合わない気がしたからなのだが、彼女の方もそれについての答えは持ち合わせていなかったらしい。へえ、と生煮えの返事で濁すと、

「子どもがいっぱいくんの」

答えは意外なところから降ってきた。志摩は軽く振り返って、相棒の姿を認める。

「そっちは終わったのか」

「話は聞いてきた、忙しそうだから詳細報告は後で所轄に渡してもらう」

合流した伊吹は、未だに鼻を鳴らしている。夏場に対面するような損壊遺体もそうだが、この男の鼻の良さは案外、いろいろな場面と相性が悪い。突然現れた伊吹をちらと見やって、女性はそうなんです、と呟いた。

「日曜学校の子たちが、楽しみにするんですよ。大人にはホットワインを配ったり……主日礼拝ではいつも、回しているので」

あたりを漂う風は焦げ臭い。キンと冷たい師走の空に、飛んできた煤がちらちらと舞う。湿っぽくなった空気を攫うように、伊吹が声を出した。

「怪我人なし、逃げ遅れた人もいないって」

人的被害の有無は真っ先に確認されなければならない。だから志摩は、野次馬への聴取中に無線でその報告を受けている。その言葉を宛てたのが自分でないことを知って、志摩は頷き役に回った。伊吹が少し屈むようにして、目線を合わせる。

「良かったね。みんな、無事」

女性がゆるりと顔を上げた。良かった、とは彼女にとって青天の霹靂であったらしい。少し唇を困らせて、しかし、

「良かった……です」

「そう、良かった。あなたも、怪我がなくて」

志摩が言い聞かせるように言う。女性は確かめるようにもう一度「良かった」と呟いて、ようやく頬を緩めた。

「ありがとうございます」

伊吹はにこりと笑って、声の調子はそのまま、警察官の顔に戻った。

「じゃあね、一応名前と、連絡先だけ教えてくれる?」

「あ、はい。紙とかに書いた方が、いいですか?」

聴取は自然な流れで相棒に引き取られてしまった。女性は明らかに気を取り直している。彼女の連絡先と証言をまとめる姿を見て、志摩は嘆息する。伊吹は変わった。

放火犯が野次馬に紛れていることは多い。火をつけた人間の心理として、燃え盛るところを確認したいという欲求があるらしい。彼女に限ってそうではないと思いたいが、初動捜査の聞き込みは他の犯罪と比較しても俄然、慎重に行われる。当然、通りがかっただけという風の人間にも身元の提示を求めて、調査報告書に添付しなければならない。肩を震わせて落ち込む女性を疑う伊吹ではないが、しっかり身分証は確認している。感情とは切り離して「ケーシキ的なこと」を進める姿は、正しく刑事のそれだった。親身に話を聞いた数秒前と、何ら矛盾も後ろめたさもなくその姿は同居している。煤けた街に、それが鮮やかだった。

伊吹の手に収まったメモ帳は小さい。背を丸めるようにして汚い字を書き終えた彼は、ぼうっと横に立ち尽くす相棒に眉を潜めた。

「なぁに、志摩。俺のこと見つめちゃって」

「終わったのか」

「終わり。ゆかちゃん家近いから大丈夫だって」

「ゆかちゃん?」

「今話聞いてた子。明日会社お休みだから、ここに通ってたおじいちゃんたちと話してみるって。きっと悲しむからってさ」

いい子だよね、と言いながら、伊吹が運転席にまわる。機捜車に乗り込むと、消火活動の音が一段遠のいた。

「そういえば」

「うん?」

キーを回した伊吹が小首を傾げる。

「よく知ってたな、お汁粉」

「ああ、クリスマスにお汁粉なんて変だー! って、志摩の顔が言ってたからね」

「言ってない」

「言ってた」

「顔は喋らない」

伊吹は眉を上げた。

「俺にはわかる。眉間に皺寄ってんぞーって言おうかと思ったもん」

しかし言わなかったわけだから、伊吹もこれで意外と空気が読めるのだ。

「あーはいはい、それでいいよ」

「はいは一回な」

伊吹が唇を尖らせる。無線が一瞬ジリリと音を立てたが、入電はなかった。束の間の静寂が降りる。

「教会ね」

伊吹がぽつりと言った。志摩は、ハンドルを握る相棒の白い手をチラリと見やった。顔を覗き込まないのは、礼儀だ。急かしているように見せたくなかった。伊吹は騒がしい男だが、時々黙して言葉を探す。

だらだらと流れていた車列が停止し、テールライトが運転席を赤く染めた。伊吹が、ようやく口を開く。


「教会ってさ、すげーんだよな」

声の調子は柔らかい。

「突然さ、知らない人が来たとすんじゃん? それでも、ようこそーいらっしゃい、仲間だぜーってすんの」

「へえ」

「……それが燃えちゃって。居場所がなくなる人は、どうすんだろうな」

「クリスマスまでに建て直すのは、厳しいだろうな」

「……そっかー」

志摩は前を向いて黙った。伊吹もそれに倣う。一瞬で車内を満たした静寂は、ピリリと首筋に冷えたものを突きつけた。志摩は、伊吹が怒っていることを知った。教会が燃えたことに。それは途方もないことのように思えた。過失による事故か、放火か。そういう刑事としての目線よりずっと遠いところで、伊吹は直向きに怒っていた。誰かの幸せが破壊されたことに、静かに理不尽を訴えている。志摩は少しかなしくなって車窓に集中した。誰かの不幸に心を痛めることはある。誰にでもある心情の動きだ。刑事とて人間である。犯人の身勝手な供述に腹が煮える思いをすることもある。しかし、誰かに降りかかった不幸それ自体を憎んでやることは、恐ろしく果てしないことだ。そんな風に心を燃やせる男を思うと、胸がぎゅっと締まった。

「戻ってこれる場所とか、そういう……」

伊吹が最近、何かの感傷に囚われていることは知っている。彼の大きな口がスッと閉じて、上へ持ち上がった口角だけはそのままに、ふと言葉を切って遠くを見ることがあった。それがどうにも気になる。

彼は妙に惹きつける容姿をしている――少なくとも志摩の主観ではそう思っていたので、突然アンニュイな顔をされると動揺してしまうのだった。道路に散ったばらばらの光源が伊吹の顔を照らし、テールランプの列がのろのろと動くたび陰影はやわらかにかたちを変える。動き出した車列に促されるように空気を吸い込んだ伊吹は、くいと顎を引いて座り直し、一瞬の亡羊を隠してしまった。

「クリスマスは別に、今年限りじゃない」

「え?」

「生活はつづく。人の縁もつづく」

沈黙を破られた伊吹は、きょとんと目を見開いていた。志摩は空咳をしてハンドルを握りなおす。

やがて伊吹は小さく嘆息して、それなあ、と呑気そうな声を出した。たとえばそれは、最後までわからなかったクロスワードの答えをうっかり拾ったような、そういう拍子抜けた声色だった。

「んふふ」

「なんだよ」

「ええ?」

「なんか、変な感じにすんな」

「へん?」

「変。妙な間はやめろ」

「いやね、俺は嬉しくなっちゃったわけ」

なんだそれ。そう笑おうとして、失敗した。息吹は柔らかく微笑んでいる。それはちょっと、茶化してうやむやにして良いものではなかった。志摩は言葉を飲み込んで、せめてもの誤魔化しに眉だけ上げてみせた。車が動き出す。

「何が」

伊吹は首を掻いて、見つからない言葉を探すように目を細めた後、降参したように言う。

「ひみつ」

対向車線を走るヘッドライトが、伊吹の瞳を潤んでいるみたいに照らした。





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