最近の考えごと

作曲と演奏のことを考えている中で連投した以下のツイートに一定の反応があったようなので、自らへのメモのために貼り付ける形でこちらにも投稿します。
ここで言うのもなんだけど、noteに書くのはちょっと気がすすまないときに断片的にツイッターへ書いていくと思考が整理される気がします。
ここ数年並行してやっている口承芸術研究と創作活動は、多分あと2-3年もすれば自分の中でうまくmixするような気がしているので、根気強く頑張っていきます。口承芸術研究(主に能楽)をしていくうちに作曲家という職業を疑っていくことになりましたが、でもそれは修論につながったし、創作という行為を広い意味で捉え直すことができたので。
頻繁には書きませんが、たまーに断続的にでもnote書いて行こうかなと思います。

以下2021年2月8日の連投ツイート(@kehunofujikawa)。

図形楽譜は閉じた形式から音楽を解放するには役だったが、「音楽作品=紙に書かれるもの=規範的楽譜(prescriptive score)」というある意味19世紀的な「文字の文化」的価値観をアップデートすることはなかった。
というよりむしろ、図形楽譜は規範的楽譜の究極の形だ。

19世紀は文学の時代、20世紀は映像の時代、であるなら、21世紀の音楽制作者(「作曲家」という専門業の名称は、この視点から普遍的な存在でないと考えあえて用いない)が「書くこと」で作品を制作するのは果たして時代に適した行為なのであろうか。

もちろん楽譜を書くことで音楽を作る仕事はある程度残るだろう。その技術が職人的な仕事として残るという意味では。
19世紀には、楽譜を書くという行為が、「職人」的な意味でも、「芸術家の制作」的な意味でもその領域が一致していた。しかし今世紀においては?

最近僕が「ポップミュージックに関心がある」という旨の発言を(話し言葉で)しているが、それは彼らがこういった問題を軽々と超えていくからだ。エクスペリメンタルな領域の人間は、こういった21世紀の大衆音楽の構造を俯瞰的に捉えて、それへの態度を示す必要がある。

ここまで述べてきた視点から、「演奏」という行為を考えている。能はクラシックよりポップミュージックに近い、と僕がよく発言するのもそこに着眼点がある。
彼らは楽譜ではなく、「演奏」によって音楽的な美を作り出す。

僕は大学院で能の研究をしていて、それを人に言うと「和なものを作ること」に興味があるとしばしば思われるのだが、そこへの関心はほとんどない。
口承芸術から演奏と楽譜を思考する手段として、能をみつめている。

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