"泥臭い"コロナの時代に聴く音楽、中村一義『十』

中村一義の10枚目(100s含め)のアルバム『十』は2020年2月に発売、配信された。
当時、コロナウィルスはまだ中国・武漢での出来事で、その拡がりが懸念され始めていた頃だった。
その頃『十』を毎日、仕事帰りに聴いていた。
「十」と「スターズー」がお気に入りだった。
「すべてのバカき野郎ども」「イロトーリドーリ」にもグッときていたが、その泥臭さに少し戸惑っていた。

もともと、中村一義という人の音楽には、泥臭さがあった。『十』は、彼のこれまで発表してきたなかでもっとも泥臭いアルバムだと思う。

通常盤のアルバムジャケットのイメージのどこか煙たい白黒の十字にもそれは漂っているし、楽曲もいい意味で色彩に乏しい気がしたことが理由だ。

純粋に楽しめる曲が少ない。これもいい意味で。

そんなアルバムの光景を象徴する2曲のように思えた。

「泥臭い」という言葉の元来の意味は、あまりいいものではない。
中村一義の音楽には、そのあまりいいものではない「泥臭い」という言葉の意味を刷新しようとする抵抗の軌跡として、私は彼の音楽を聴いてきたように思う。

話はアメリカ映画に移る。同じく泥臭さに向き合った映画監督がいる。ロバート・アルドリッチである。
アルドリッチが描く、泥臭いものを突き詰めると、そんなことは不可能だと思われていたものまでも破壊に至らしめてしまう、その光景。それはときにあまりにも清々しく、ときにどこまでも陰惨だった。

中村一義が『十』で聴かせる「泥臭さ」はとうだろうか。彼の音楽はこれまで、「泥臭さ」に対して、そこまで突き詰めるということとは異質の向き合いかたをしてきた。

少しだけそれを覗かせるといった具合に。

それを覗いたときの、具合のインパクトに賭けるといったアプローチ。

『十』での「すべてのバカき野郎ども」「イロトーリドーリ」では、そのアプローチは少し違った様相を呈している。
覗かせるどころか、あるタイミングで全開にして、開け放っている。
中村一義のアルドリッチ化だ。

そこに『ERA』「ゲルニカ」のような、"死んだフリ?なら死ねよ"という歌詞の言葉面にあったような青臭さはない。まさに泥臭さそのものなのだ。

というわけで戸惑った。アルドリッチ化した中村一義に。
世間(もっと中村一義の音楽について語る世間になって欲しいものだ)では「すべてのバカき野郎ども」についてオアシス化した中村一義、というだろう。

しかし、日々を重ねるなか時折「すべてのバカき野郎ども」が頭のなかで再生される、その都度、ニュアンスが変わっていった。
海賊のメンバーとして日々を共にした仲間の死の知らせを冒頭、描くこの曲。
最初は、2年前に亡くなった職場の先輩のことを思い出してばかりだった。
例えば職場で曲が脳内で流れ出すと、仕事が若干滞った。キーボードを打つ指がさ迷った。

そして7月、「すべてのバカき野郎ども」がまた脳内でさかんに再生され始めた。
純粋に歌詞とメロディーが染みた。

再び脳内でヘビーローテーションされるきっかけはよくわからない、そんなものだろう。

大切なのは、それを機会にもう一度ちゃんと聴いてみるということだ。

するとどうだろう。本人は意図していなかった、コロナに振り回されるいまこの世の中をまるで切り取ったようなアルバムのように聴こえるではないか。

「すべてのバカき野郎ども」「イロトーリドーリ」は今度はそれを象徴するかのような二曲にもなった。

"野郎ども今日ぐらい朝までやっちまおうぜ、飲もうぜ"と呼び掛けるように歌う「すべてのバカき野郎ども」。

"今日どうなることやらわからない。明日、どうなることやらわからない""守りたいんだ、自立を。見返りのない愛を。人情を。"などなど、まさにいまこの状況に突き刺さる歌詞が炸裂している「イロトーリドーリ」。

今はこの二曲がすんなりと入ってくる。

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