『ナイヴズアウト』久々に、「映画が一番」と思えた作品

「映画が一番」

昔は、そう思っていた。
20年ほど前の、若い頃の話。

先日、職場で、『スター・ウォーズ』を観てない、という若い子達の多さに驚いた。
「宇宙とか興味なくて、苦手」
「ハリー・ポッターはユニバは楽しいけど、映画は寝ちゃう」
映画はすっかり古い娯楽になってることをひしひし感じた。
木~日曜の夜9時からはどこかで映画がやってる、というテレビ番組の日常(関東圏以外がどうだったかは知らないが)がなくなったときから、ずっと映画は存在を小さくし続けてきたと思う。

インターネットがすっかり日常に情報や価値観を届けるメディアとなり、本格的に娯楽を届けるインフラとして機能し始めた昨今、映画を映画館で観るという行為に至ってはより当たり前ではなくなってきた。

2020年からは新型コロナウィルスの影響でなおさら映画館の存在そのものが揺らぎはじめてもいる。

昔は思っていた「映画が一番」という自分自身も、すっかり揺らいでしまった。
「映画が一番」なんて、単に映画しか興味のない映画オタクの言葉でしかないだろ、と。

実際、映画館で映画を観なくなって久しい。
一人で映画館で映画を観るなんて、年をとるごとにしんどくなってきている。
一人で観に行かなきゃいいといわんでくれよ、映画が趣味の人間は、友達ができにくいのだ。
『映画秘宝』だけが、ボンクラ映画や変わった映画のファンダムをつくっているようで、他のアイドルやアニメのファンダムと比べれば屁みたいな存在でしかないし、そもそも健全ではなく、ほとんどつながりというつながりの実体もない。
それだけ、映画をポップカルチャーとして楽しむという文化はずいぶん前から過去のものになっているのだ。

と、大上段の話みたいな導入になったが、『ナイヴズアウト』をネトフリで観たのだった。

映画をネトフリで観るようになった。
もちろん映画館で観るにこしたことはないが、映画はまた、数をこなすに越したことはないものだ。
それには映画館は高すぎる。

ミニシアターでやるような作品以外の、例えばいわゆるハリウッド映画だけでも多様なジャンルがある。
そしてハリウッド映画が一番面白いのだ。

ジャンルや撮影・照明・録音・音響・演出などなどの技法、スター、共通基盤を作り出した歴史が断絶を繰り返しながらもそれでも産業としては続けてきているからだろう。

そのハリウッド映画が豊富に配信されて、家で手軽に観られるようになった。
これは悪いことばかりではないと思っている。

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』で散々だったライアン・ジョンソンの次の作品を観る気には、これまでどうしてもなれなかった。

しかし、最近、ネトフリにスタトレのビヨンドが配信されみていたら、過去二作の記憶がとんでることから気になってjjエイブラムス版スタトレをなんとなく見返し、jjってこんときちゃんとしてたのに…と思いながら二作目のカンバーバッチの顔は本当に良くて、もっとカンバーバッチを!と、彼の演じた『シャーロック』を観たのだった。そこから、シャーロック・ホームズ良いなあ、と思ってガイ・リッチー版の『シャーロック・ホームズ』を鑑賞、他に推理ものが観たい、とようやく腰をあげて観たのが『ナイヴズアウト』だった。

この流れがないと観れなかった。それくらい、最後のジェダイでライアン・ジョンソンに失望していたのだった。

しかし、観たあと、あらら、久しぶりに「映画が一番」とちょっと思えた。

最近、なかなかそうも思える映画はないので、凄いことだなと思った。
同じ脚本、監督で、こうも違うのか、いや、最後のジェダイの経験でライアン・ジョンソンも本気で頑張ったのかな。

なぜそこまでよく思えたかと言えば、この映画は単に出来がよいだけではなく、ちゃんと現在に開かれているからだ。それが2010年代に対する絶妙なアンサーになっている。

作品そのものの話の前に、この2010年代に映画で起きたことについてしばらく書く必要がある。

2010年代は、00年代に革新的なハードとシステムを構築した企業の独占支配が本格化し、形作られた時代といえよう。
そんなの当たり前なのだが。
そこですぐに思い付くのはGAFAだ。一方、映画業界においてそれはディズニーだった。MCU(マーヴェル・シネマネィック・ユニバース)はアイアンマンのヒットに始まりアヴェンジャーズでその人気が爆発した。

MCUが画期的だったのは、個々の作品がシリーズものとして織り成していくというシステムだ。同じキャラクターによるストーリーの継続は映画において困難である。スーパーヒーローの豊富な原作を武器に、MCUはストーリーではなく、作品ごとに大きなイベント(アヴェンジャーズシリーズ)に繋がる前フリを武器とした。

ネット回線によるゲームカルチャーが浸透した若者に対し、それが観るRPGとして響いた。

こうして映画のイベント的側面に特化した戦略から幅広く根強いファンダムをつくりあげた。

同様にディズニーが手掛けたスター・ウォーズシリーズはその点で失敗している。スター・ウォーズの原作において、ヒーローはあくまでジェダイであり、そのストーリーは縦軸に徹底している。
ユニバースはその横軸にどれだけのヒーローと呼べる主人公が散りばめられているかなのだが、それが不足していたのだ。

スピン・オフとユニバースものは、観客の反応に大きな隔たりがあることが明確になった。『ハン・ソロ』によって、スピン・オフに多くの商業的成功は期待できないととっとと判断したディズニーの方針変更は正しかった。
オリジンの引き延ばしに依存していても、一般の観客はついてこない。

そして、『スター・ウォーズ』の新三部作(シークエル・トリロジー)そのものも、作品の内容として、また、映画の興業収入における戦略においても失敗した。
スター・ウォーズブランドに映画『ハン・ソロ』が与えたダメージは大きい。
というより、『ハン・ソロ』までに重ねてきたディズニーの製作方針の失敗が産み出したダメージだ。

スター・ウォーズこそが、戦後、衰退していった映画産業をそのイベント性に特化して盛り上げてきたコンテンツのオリジンであった。しかし、同時にそれは、ジョージ・ルーカスという作家の生み出した超個性的な創作ものであったのだ。

この『スター・ウォーズ』を巡る二つの側面は、シークエルトリロジーにそのまま影を落とす問題として引き継がれてしまった。
ディズニーは前者の『スター・ウォーズ』はイベントであるという側面のみに戦略を全面展開させた。そのことで、後者はおざなりとなったまま、つまり、創作ものとして、その物語や設定はすっからかんの状態で見切り発車した。そのことが製作サイドを混乱させた。

まず、スピン・オフにおいて。スピン・オフに関わらず、スター・ウォーズという神話に余計なイメージが入ることを会社は恐れた。ただ、旧三部作の人気にあやかって、それらを傷つけることなく、無難な物語と演出をしてくれればよかった。しかし、作品のクオリティーは保持されてほしいから、見込みのある新人監督を、ベテランのスタッフで囲おうとした。

新人監督はそんな会社の方針に戸惑うだろう。スピン・オフの時点で、すでに余計なことをしてるのに、こいつらは俺に何をしてほしいんだ?となるのは当然である。

これは『ローグ・ワン』のキャラクターたちにフィードバックされている。スピン・オフを任された監督たちは、スター・ウォーズの旧三部作にまつわる情報をただ届ければいいだけなのだ。
そして、一人残らず消えてくれれば(なんの特徴も残さず演出してくれれば)、なおよいのだった。

これこそが会社の上層部が望んだことだったが、そこから下に動くものたちは観客含めそうもいかなかった…。

かくして2010年代を象徴するハリウッド映画の裏の事件としてスター・ウォーズは語られるに足るものであることは間違いない。

そして、MCUとスター・ウォーズという、ディズニーが残した2010年代の表と裏の遺産に共通する事象がある。それは、特殊な能力をベースにした主人公のコンテンツということだ。

2010年代は非凡な主人公が勇敢な物語を織り成す、という時代だった。その先手として現れたコンテンツが『ブレイキング・バッド』だ。

ライアン・ジョンソンのフィルモグラフィーを知る人は自分が何を言いたいのか明確だろう。

彼は『ブレイキング・バッド』のエピソード数こそ少ないけれども演出を担当しており、シーズン5一番といえるクライマックスを演出した回は非常に評価が高く、『ブレイキング・バッド』の濃いファンにとっては『ルーパー』よりもこちらの印象が強いほどである。

『ルーパー』『ブレイキング・バッド』、どちらも特別な能力を持った人間のドラマでありながら、スーパーヒーローとしてではなく、それを元に破滅していく軌跡が描かれている。

ライアン・ジョンソンは、特殊な能力を武器にした主人公という、2010年代的テーゼを思いっきりしょいこんでいた存在であり、そのことを何よりも本人がわかって発表した作品が『ナイブズアウト』なのだ。

そして、『最後のジェダイ』の時点で彼はそのテーゼを振り払おうとどこかでもがいたのかもしれない。というより、会社の、誰もがジェダイになり得る物語を、という方針に目茶苦茶振り回されたのではないだろうか。あのとっちらかった脚本をみる限り、彼にとって『スター・ウォーズ』の新章の、しかも続編を手掛けることは、荷が重すぎたのだろう。

そのことの経験が『ナイブズアウト』の導入から生かされているのは明らかに思える。
あの一族は、スター・ウォーズの新作に取りかかっていたディズニーそのものにみえるし、差出人不明の手紙によって動かされた探偵はライアン・ジョンソンとも読み替えられる。

次作の『ナイブズアウト』が探偵ものであることは、ライアン・ジョンソンにとっての新たな(といってもそれは心機一転といった趣の)チャレンジとなったはずだ。

探偵もの(推理もの)こそ、能力者を描くジャンルの元祖と言えるからだ。

アメリカで『ブレイキング・バッド』が始まった2年後、イギリスでは『シャーロック』が始まり、ベネディクト・カンバーバッチ演じる現代のシャーロック像を視聴者は歓迎した。

自分は最近『シャーロック』を観たばかりだが、当時、カンバーバッチ人気が海の向こうで起きていたことは知っていた。

シャーロック・ホームズは能力者ものの原点といえるキャラクターである。いまや時代物の風格を帯びる舞台を、現代に設定することで、能力者ものの側面が改めてフォーカスされたことも、人気の一因となったのではないだろうか。

『シャーロック』をいまになってみて印象に残ったことは、とにかくシーズン1のエピソード1が異様に面白く、それが『ブレイキング・バッド』の面白さと、よく似ていたことだ。

『ブレイキング・バッド』で起こる事件は、常に奇妙な軌跡を描く。それこそ、探偵ものに相応しい細部であるということを思い起こした。

その細部に振り回される登場人物たちと、探偵が事件に潜む細部を追う様が似ているのだ。『シャーロック』を観て、まさか『ブレイキング・バッド』について新たな視点を持つとは思わなかった。

それはやはり、両者が2010年代的な作品であることを意味するのではなかろうか。

そしてその地続きに、MCUという、スーパーヒーローたちのユニバースがあるのではないか。

このことは、特別じゃない自分を救済してほしいという大衆心理が時代に蔓延ったことを意味するようにも思えてくる。

『ブレードランナー2049』は、自分は特別と思っていたいのに、そうじゃなかったというエピソードが丁寧に描かれていた。
そして、ここにもアナ・デ・アルマスは出演している。

自分は特別と思っていたいのに、そうじゃなかった。…それこそ、2010年代にどこか蔓延した大衆の心理なのかもしれない。

人生を挽回してくれる(特別である瞬間をともにできる)ようなキャラクター像を世界中の人々が求めたのだとすれば、そこに2010年代特有の悲しみがあるような気がする。

そしてこの悲しみをもたらしたものは、インターネット、デジタルカメラ、スマホがもたらしたライフスタイルの変遷だろう。

知りたい情報をすぐに調べることができ、撮って確認したいものをすぐに撮ってみることができ、どことなくどこかに書きたい、つぶやきたいこと書いておくことができる。その結果、うっすらと、自分自身に失望していく。

ここまで物事を比較できるような生活環境に置かれたことなどなかったぶん、これまで以上に自分のことを知ってしまう。見失ってしまう。

その時代に突入していったのが、『ブレイキング・バッド』の放送が始まった2008年くらいなのかもしれない。

2008年頃に私たちの生活を変える何があったのか。思い出すのは、iphoneの発売である。
通信規格3G対応のiphone3Gが2007年にアメリカで、日本は2008年に発売された。
そして、スマートホンと並んで台頭したのがTwitterである。Twitter自体、2006年頃からあったとされるが、少なくともここ日本ではその存在は2009年頃から本格的に世間で認知され始めたと記憶している。また、日本語版が出来たのはそれこそ2008年だ。

時は少し遡り、2001年、東浩紀による『動物化するポストモダン』が発表され、当時の批評、論考好きな大学生はフーコーの規律訓練型の社会から、環境管理型社会への過渡期である現在を認識した。
私もその一人である(といっても私はそれほど批評、論考好きでなく、友人に教えてもらった口なのだが)。

環境管理型社会が個人のライフスタイルに影響を及ぼすツールとして本格的に機能しはじめたのはiphoneの登場からではないだろうか。

環境管理型社会とは、監視社会のことである。監視するにはその対象(材料)が豊富かつ新鮮でなくてはならない、それが現在、データベースと呼ばれているものだとすれば、わたしたちはそれらを駆使することで社会に参入できる。

それが2010年代に発展していった感覚である。
わたしたちひとりひとりが、データベースを参照するユーザーであり、そこに介入し、更新もするオーガナイザーでもあるという感覚。
これは、以前に『ロング・ショット』の感想で述べたことだが、私たちはその意味で警備員である。同時に探偵(シャーロック)であり、そして科学者(ウォルター・ホワイト)なのである。







(ここあたり、まだ加筆していきます)

自殺したのはジョージ・ルーカスだが、遺産は渡されない。いちからやれ、ということ。

そして遺産は移民の女性に引き継がれる…これって、本来つくられるはずだった『スカイウォーカーの夜明け』なんじゃないの?



(続きはまた更新)

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