シン・エヴァンゲリオンとオリジナル(テレビ)版。
シン・エヴァは素晴らしい。旧劇は凄かった。
でも、TV版ラスト2話はなによりヤバかった。
シンエヴァで一番のサプライズは、このテレビ版ラスト2話のオマージュが散りばめられていたことだ。
テレビ版ではアスカ、ミサト、レイ、そしてシンジの場合が描かれ、シンエヴァでは、ゲンドウ、アスカ、レイ、カヲルの、場合というよりは解放が描かれている。
(補完計画発動中にミサトはすでに死んでいる。なのでミサトの場合があるのはおかしいのだが、いまとなってはそれがレアだ)
シンエヴァは旧劇というよりも、テレビ版のここが一番鮮やかな対比となっていたと思う。
テレビ版ではただただ、キャラクターたちは孤独を吐露し、シンジだけ、ここにいてもいいという答えを見いだして祝福された。
シンエヴァではシンジがキャラクターたちをエヴァンゲリオンの呪縛から解放する。
また、自分はテレビ版の、ミニチュアになった第三新東京市と、それを見下ろす、台本を持ったシンジの図がなにより衝撃だったので、それをそのまんま再現してほしかったなあと思う。
シンエヴァではそのミニチュアがシン・ゴジラを経て、特撮セットになった。
あそこは劇場で観ていて、おおお!と興奮した。
アニメにおける実写的メタ表現は、高次元への移動の表現に多用される。
SSS.グリッドマンでは、目覚めたら実写になる、というラストが、押井守のアヴァロンみたいに加工された実写から、見慣れた実写に移るという描写など、アニメでは高次元に行く描写に実写がよく使われる。
(ちなみにハリウッド映画に顕著だが、実写映画での高次元への移動には特撮が多用される。そして、アメリカ映画における高次元への移動はキリスト教における携挙を意味する宗教的な思想の反映がほとんどである)
シンエヴァでも、実写というより、実風景がラストシーンに出てくるが、あれは高次元に行くというより、庵野秀明監督の元風景をかつてのATG映画のオマージュ(ATG映画は監督の故郷を題材のひとつにした作品が割りと多い)としてやっている。
テレビ版のラスト2話がヤバかったのは、高次元の世界が、閉じたスタジオがセルアニメのまま描かれたことだ。
いままで観ていた物語は虚構なんだよ、という表現としてかなりダイレクトな表現だったと思う。
碇シンジだと思っていたキャラクターは台本をみてそれを演じていた誰か、つまり、ただの記号であることが示されていて、当時は衝撃だった。
結局あれが一番キレキレの表現だったわけで、それだけに賛否両論も凄まじかったのだろう。
シンエヴァはそれをマイナス宇宙としてしっかりと物語に落としこんでいて、そこが素晴らしいのだが、あのスタジオの閉塞感と、シンジ君はそれを演じる誰かでしかない、という衝撃は、監督が35歳だったからこそ成せる表現だったとしみじみ。
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