見出し画像

芸術文化にふれるきっかけづくり応援事業(兵庫県)「ピアノと歌をサシェみたいにして」プログラム原稿

ピアノと歌をサシェみたいにして
ミジカムジカ 音楽の旅

ソプラノ 草野 舞
ピ ア ノ 齊藤明日香

2019年10月19日
西宮市民会館 101室

【日本の歌曲】
 そもそも、ドイツ語のリートや英語のソングが、日本語の「歌曲」という言葉として定着したのはせいぜい1930年代、本格的には戦後のことだそうです(津上智美「近代日本における芸術歌曲としての「日本歌曲」概念の成立」による。「神戸女学院大学論集」64-1、2017年)。
 それはともかく、日本人が作った「歌曲」で一番古そうな、と言われると、瀧廉太郎(たき・れんたろう。1879-1903)の「花」(1900)や「荒城の月」(1900)を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。今日はその瀧のあまり知られていない美しい曲「秋の月」をお聴きいただきます。
他にも文部省(現・文部科学省)の小学校のための唱歌として、その約10年後に岡野貞一(1878-1941)作の「故郷」(1914)、「紅葉」(1911)、「春の小川」(1912)などが発表され、100年以上を経た今も歌われています(若い世代にうまく継承されていないという指摘も多く見られますが)。
 明治以降の日本で、歌はまず雅楽調の唱歌(君が代、越天楽今様など)に始まりました。その後外国曲に日本語を当てはめて歌う曲や軍歌が続き、やがて瀧らによって扉が開かれ、さらに10年後に山田耕筰や信時潔と、ドイツで音楽を学んだ作曲家によって本格的なスタートに立ったといわれています。
 明治末から大正にかけては、優れた詩人からの働きかけで童謡の創作がさかんになり、昭和初期にかけて本居長世、弘田龍太郎、清瀬保二、平尾貴四男、服部正、高田三郎らによっていったん花開きますが、戦時下の混乱(国家意識昂揚に向かう隆盛と、それによる沈黙)を迎えることになります。
戦後には中田喜直、別宮貞雄、小倉朗、石桁真礼生、柴田南雄、団伊玖麿、伊福部昭、間宮芳生、大中恩、小林秀雄(文芸評論家とは別人)らによって、敗戦国民としての日本人が世界に誇り得る、本物の日本音楽を創造するためには、民族の基盤に立つべきであるという考え方から、日本的抒情、民謡的旋律などを客観的に捉えなおし、新たな創作に結び付けようという動きが生まれます。(以上、浅田まり子「日本歌曲の背景」を参照。「愛知淑徳大学論集. 文学部・文学研究科篇」37号、2012年)
 私的な思い出ですが、詩の出版社に勤めてからだったかその前だったか、ある作曲家から、日本語の歌曲を作らなければいけなくなったんだが、韻律の魅力的な詩人を紹介してほしいと言われ、考えあぐねて(音楽家にとって魅力的な韻律というものがわからなかったわけです)那珂太郎や中江俊夫など2,3の詩人を紹介したのですが、採用されず、結局その作曲家は俳句によって曲を創り、最晩年の柳兼子さん(1892-1984。夫は民藝で知られる柳宗悦)がお歌いになりました。
 西洋の音楽はもちろん西洋の(と一括りにするのも乱暴ですが)言葉の韻律(音の長短や強弱、高低)を基につくられるわけで、当然日本語には特有のものがあるはずです。日本語の音声的特徴は等時間隔にあるといわれ、七音・五音の組み合わせによる音数律であるとされます。西洋の詩に見られる脚韻(詩歌などの行末を同音にそろえ、繰り返す余韻の響きを味わう)による音響的効果も乏しいとされています。
 今日はイタリア語、日本語、その他異なる言葉の音色、響きを味わっていただけることと思います。

■ドビュッシー「レントより遅く」
 ドビュッシー(1862-1918)は、パリ西部サン=ジェルマン=アン=レーに生まれ、パリで亡くなりました。
 レントとは、音楽用語で「ゆっくりした」「緩慢な」という意味。同じゆっくりというアダージョやラルゴに比べると、弱々しく、だるい、頼りなげな印象があるようです。
 ジプシー(ロマ)の音楽に対するドビュッシーの関心、興味などが反映している曲であるといわれています。

■ヘンデル「涙流れるままに」
 ヘンデル(1685-1759)はドイツ出身のイギリスの作曲家で、バロック期を代表する一人です。
 この曲は「私を泣かせてください」というタイトルでも知られています。主人公・十字軍の将軍リナルドのいいなづけで、魔法使いの囚われの身になったアルミレーナが、苛酷な運命に涙を流すという場面で歌われます。

■ラヴェル「水の戯れ」
 ラヴェル(1875-1937)は、フランスの南西、スペインと国境のバスクの港町シブールに生まれ、パリで亡くなりました。晩年は失語症・記憶障害等に苦しみ、死因についてはアルツハイマー症候群または「全般性痴呆を伴わない緩徐進行性失語症」であったと言われています(諸説あり)。
 「水の戯れ」は20代半ば、パリ音楽院在学中の作品で、師のフォーレに捧げられました。国民音楽協会主催のコンサートで初演されたそうです。「裸身をくすぐられる水玉にはしゃぎたまう河の神…」というレニエの詩が題辞として掲げられています。不協和音を大胆に使った、新しい時代の幕開けの一曲です。

■プッチーニ「ムゼッタのワルツ(わたしが街を行くと)」
 プッチーニ(1858-1924)は、イタリアを代表するオペラの作曲家。「ラ・ボエーム」は、パリの下町にすむ若者たちの夢と恋と友情を描いたコンパクトなオペラです。第二幕、クリスマスイブの夜なのにムゼッタは貧乏な画学生マルチェッロと別れて、年寄りの金持ちをパトロンとしています。ムゼッタはカフェでマルチェッロを見かけると、彼に当てつけるように自分の魅力について歌い、まだ彼が自分を愛していることを確かめ、再びよりを戻します。
 なお、ボヘミアンとは、19世紀ごろから社会の慣習を無視して放浪する芸術家の代名詞となったようですが、チェコのボヘミア地方にロマ (ジプシー) が多く住んでいたことが語源です。

■トスティ「薔薇」
 フランチェスコ・パオロ・トスティ(1846-1916)は、イタリアの作曲家。愛とロマンの香気に満ちた美しいメロディが人気です。
 小さな薔薇は祈のり本の中に閉じ込められ枯れてしまう、そして四月の恋は逃げてしまう、あなたはそれを見つめ涙を流す、私はあなたに口づけしよう。

■サティ「お前がほしい」
 エリック・サティ(1866-1925)は、フランスの北部・ノルマンディ地方のオン・フルールに生まれ、パリで亡くなった、音楽界の「異端児」「変わり者」です。
 カフェ「黒猫」のために書いた歌曲集『ワルツと喫茶店の音楽』のうちの1曲で、原題の「ジュ・トゥ・ヴ」でも知られています。元は歌曲ですが、サティ自身のピアノ編曲版が一般化し、さまざまな楽器に編曲されてもいます。
 谷川流原作のアニメ映画『涼宮ハルヒの消失』(2010)で使われていたことでも有名です。詩は、かなり濃密。
■サティ「ジムノペディ」
 穏やかな曲調で、ドラマのBGMやヒーリング音楽としても使われますが、作曲家は「ゆっくりと苦しみをもって」と指示しています。タイトルは古代ギリシャで青年たちが裸で乱舞する祭典ギュムノパイディアにちなんだもので、その様子を描いた壺を見て曲想を得たといわれています。

■プッチーニ「私のお父さん」
 この曲は、相続争いと若者の恋をテーマにした50分程度のコンパクトなドタバタ喜歌劇、『ジャンニ・スキッキ』の一曲です。「ねぇ、お父さん、私、好きな人がいるの、とっても素敵な人よ。ポルタ・ロッサ(フィレンツェの中心街の名)まで指輪を買いに行きたいの。もしこの愛がかなわないなら、私、ヴェッキオ橋からアルノ河に身を投げるわ。切なくて、苦しくて、死にたいくらいなの。お願いだから、あの人と結婚させて!」と歌われます。フィレンツェの観光案内の要素もある、如才ない歌詞です。映画『眺めのいい部屋』『僕の美しい人だから』『終の信託』などに使われています。

■瀧 廉太郎「秋の月」
 瀧自身の作詞です。瀧(1879-1903)は、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家。1901年ドイツに留学しましたが,結核のため翌年帰国。この「組歌四季」の第一曲は、有名な「花」、♪はーるの~、うらーらーの~。

■木下牧子「風をみたひと」
 木下(1956-)は、オールラウンドな作曲家ですが、とくに声楽の分野で親しまれているといっていいでしょう。一見素直な流れですが、詩を深く読み込んだ自然な落差のあるメロディが魅力的です。
 ロセッティ(Christina Georgina Rossetti 1830-94)は、イギリスの詩人。訳詞の木島(1928-2004)は、詩人、英米文学者で、作品が多く合唱曲になっているほか、ホイットマンやヒューズの翻訳でも知られています。
 
■中村美穂子「月うさぎ」
 2014年ピティナコンペティション近現代課題曲。月にうさぎがいるというのは、アジア各地に多い伝承のようです。中国では不老不死の薬の材料を杵で打って粉にしている、日本では餅をついている(=望月)とされています。
 中村は、現在清泉女学院短大や長野市内でピアノ講師を務めているようです。

■吉松隆「鳥たちのコンマ」
 吉松(1953-)は、代々木に生まれ、慶應義塾大学工学部を中退、専門的な音楽教育は受けていない異色の作曲家です。「世紀末抒情主義」を提唱し、無調で難解になりがちな現代音楽の趨勢とは異なる方向を目指しました。
 舘野泉という2002年に脳溢血で倒れて右半身が不自由になった「左手のピアニスト」のために書かれた曲集「タピオラ幻景」の中の一曲。タピオラとは、フィンランド神話の森の神タピオが住むところ。森のあちこちから途切れ途切れに聞こえてくる鳥たちの声を描写した曲。フィンランドの森の神をイメージのベースとした美しい旋律が魅力です。

■久石 譲「スタンドアローン」
 愛媛県松山出身で、日本陸軍騎兵部隊の創設者・秋山好古、その実弟で海軍中将の秋山真之、真之の親友で俳人の正岡子規の3人を主人公にした司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をドラマ化したNHKの番組の主題歌。
 明治維新から日露戦争という近代日本の黎明期をそれぞれに歩んだ3人を通し、国家の形成期をスケール大きく描いた作品世界を、大ぶりに捉えた曲だと言えるでしょう。久石(1950-)は現代の日本に「凛として立つ」という思いをこめて「Stand Alone」と名づけたということです。

■山田耕筰「赤とんぼ」
 三木(1889-1964)の故郷である兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれています。
山田(1886-1965)は、ドイツ留学を経て、日本初の管弦楽団を指揮、運営するなど、日本音楽の黎明期を支えた人物の一人です。
 なお、詩で「おわれて見たのは」は「追われて」ではなく「負われて」、背負われての意味。嫁に行った「ねえや」はお姉さんではなくて、子守の「姐や」。

■岡野貞一「紅葉」(もみじ)
 岡野(1878-1941)は、小学唱歌の作曲に当たる一方、教会オルガニスト、聖歌隊の指導者でもありました。
 高野(1876-1947)は、近松門左衛門、人形浄瑠璃を専門とする国文学者でもありました。
 二人で「ふるさと」「故郷」「朧月夜」「春がきた」「春の小川」など、数多くの小学唱歌の名作を作っています。


(じょうねんしょうぞう 本シリーズの企画運営。中心は、ダンス・演劇評論。神戸女学院大学等非常勤講師(アートマネジメント、舞台芸術、世界舞踊史等)。西宮市文化振興課アドバイザー)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?