見出し画像

舞台遠見3 言葉の前後の言葉と身体

 舞台芸術に限ったことではありませんが、感動とはどこから出てくるものでしょうか。いくら感動できるような物語でも、時に白けてしまったり、鼻についたり、底が見えてあざといと思われたりすることもありますし、全く感動するような物語でもないのに、なぜか涙が止まらなかったり、灯りがついても椅子から立ち上がれなかったりすることがあります。
 きたまり/KIKIKIKIKIKIというコンテンポラリーダンスのカンパニーによるダンス公演「悲劇的」(2017年8月、京都・アトリエ劇研)の凄みは、そのような、なんとも説明がつかないものだったように思います。運動量が大きかったことは確かで、床にダンサーたちの汗の海が光るなど、視覚的にも圧巻です。アトリエ劇研という劇場が8月末に閉館してしまうという事情もあり、運動量の激しさによる身体の疲弊が、どうしても「終末的」に見えたことも確かです。
 前半は儀礼的な動きや床での爬虫類か両生類のようなぬめぬめした動きが続き、人類誕生以前や未明の世界といった文学的な想像をめぐらしてしまいますが、やがてゆるやかなユニゾン(同じ動き)や、軽やかでチャーミングなスケルツォでは、ダンサー(花本ゆか、藤原美加、益田さち、斉藤綾子、きたまり)の動きや視線の交錯そのものに集中させられ、言葉での翻訳を行うという余裕を失います。第三楽章のきた自身のソロで、上半身主導の動きは、表現的でありながら何を表現しているかはわからず、シニフィエ(意味内容)が欠落・剥落したシニフィアン(動き)としか呼びようがありません。
 表現と内容の分離は、現代芸術の一つの大きな要素だといっていいでしょう。そのためにほとんどの場合、現代芸術は感動から遠ざかります。ところがこの作品では、音楽がいわゆる「絶対音楽」(「標題音楽」の対義)であるため、情景や感情の描写・再現が成立しません。きたも音楽から明確な物語を抽出・創造するのではなく、霧のような明度で悲劇的らしき「終末」を予感させるだけという構成をとったようです。観客にとっては、目の前で起きているダンサーの動きと音楽が、論理的に合致して流入するのではなく、同時にしかし別々の存在として等価に流れ込み、ほとばしるような強い流れに身を揉まれることになります。結果的に、この場に立ち会った者は、感覚が常より鋭敏に開かれ、身体からも音からも、強烈な圧倒感を与えられることになるのです。
 きたは十代から舞踏をきっかけにコンテンポラリーダンスを始めたダンサー、振付家。昨年からマーラーの交響曲によってダンス作品を創るというプロジェクトを始め、「夜の歌」は文化庁芸術祭新人賞を受賞するなど、高く評価されました。
   ★
 貞松・浜田バレエ団を経て、ドイツのレーゲンスブルグ歌劇場で、日本人で初めての欧州の公立劇場(舞踊部門)芸術監督に就任した森優貴の新作が、神戸文化ホールで上演されました。「ダンス×文学シリーズVol.1 Macbeth マクベス」、タイトルの通り、シェイクスピアの四大悲劇の一つをベースとした舞踊作品です。共演は、池上直子。
 「悲劇的」とは異なり、物語が存在することが前提であり、多くの観客がその物語を知っています。マクベス夫人が手を洗う場面などを思い出し、動きを観て思い当たりながらも、また言語から逸れている時間もある……言語化されない動きの中に演劇とは違った意味や空間の広がりを見つけることになります。演劇を舞踊にすることが、言語の削除というマイナスではなく、言語以前、言葉になる前の感情の暴発を付加するプラス要因であることが、理想的な形で実現した、見ごたえある公演でした。
 感動を言葉で表すのは、とても難しいことだと思います。それは、言葉の前に動いている何ものかだからです。形容詞ではなく感嘆詞。それを何とか言葉にしようとするのが、批評という作業なのではないかと思っています。

「沖ゆくらくだ」No.3所収
写真は、きたまり『悲劇的』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?