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ミジカムジカ7 「『ぞうのババール』と、その頃」プログラム原稿

ミジカムジカ7「『ぞうのババール』と、その頃」
語り 菊池 航
ピアノ 志賀俊亮

2019年11月30日
アートスペース萌芽ホール

■絵本のババール
 『ぞうのババール』は、パリ生まれのジャン・ド・ブリュノフ(Jean de Brunhoff、1899-1937)が1931年に出版した、架空の象の物語です。
 ブリュノフは出版社を営む家庭に生まれ、エコール・アルサシエンヌを修了、陸軍に入り、第一次世界大戦末期に従軍しています。
 その後芸術で身を立てることを決意し、グランド・ショミエール芸術学校で絵画を学びました。1924年にピアニストのセシル・サブーローと結婚。ローラン、マシュー、ティエリーの三男を設けます。
 ババールを主人公にした物語は、もともとセシルが4歳と5歳だったマシューとローランを寝かしつけるために語ったものでした。小象の物語を気に入った子どもたちは、父のジャンに絵を描いてくれるよう頼み、ジャンが絵本に作り上げました。ジャンとセシルの連名にする予定だったようですが、セシルが自分の名前を削除したようです。その後6冊が続刊されましたが、ジャンは37歳で結核のため亡くなってしまいます。
 ジャンの死後、ヴォーグ・パリの編集者だった弟のミシェルが、英国の新聞ザ・デイリー・スケッチのために白黒で描かれていた二編『ババールと子どもたち』『ババールとお父さんのクリスマス』に彩色して(13歳のローランも手伝って)アシェット社から出版、既刊分も含めて世界中のミリオンセラーとなります。
 その後ジャンと同じグランド・ショミエール芸術学校を経て画家となったローラン(1925-)が50冊を創作、またテレビアニメーションとして1991年までに65話が製作され、さらに2000年に13話が追加されました。
 『ぞうのババール』は物語としては、母が子に語り聞かせるベッドタイム・ストーリーであり、緻密に構成された文学作品というよりも、子どもの反応や質問に答えながら、半ば即興的に作られたものといえるでしょう。そのため、ストーリーについては、行き当たりばったり、ご都合主義、と思われるかもしれません。あくまで、子どもを寝かしつけるためのお話なのです。
 ところで、Wikipediaでもふれられているように、『ぞうのババール』には、「植民地主義的!」という批判があるようです。「西洋の服を着て国に戻り王様になるババールは西洋かぶれの独裁者で、老婦人は優しさというオブラートをかぶった植民地主義者だ、というのだ」(Ovni navi。https://ovninavi.com/ 710babar/)というような。
 第一次・第二次世界大戦の戦間期の一時的な安定と、「狂騒のパリ」と呼ばれた時代相、1929年の大恐慌から、ババールがデパートで散在し贅沢をすることの背景が見えるようにも思えます。フランスとアフリカの近さは、日本人にはピンと来ないことかもしれません。フランス人の「王」に対する考え方は、われわれにはちょっとわからないかもしれません。でもまぁ、あくまで、子どもを寝かしつけるためのお話なのです。

■音楽のババール
 時代は少し下って、プーランク(Francis Poulenc 1899-1963)は第二次世界大戦下の1940年に、従軍動員を解除されて、父方の親戚が住むフランス中部のブリーブ=ラ=ガイヤルドに滞在していました。11人の甥や姪たちに囲まれていたそうですが、子どもたちは作曲にいそしむプーランクが弾くピアノに飽きてしまって、愛読していた絵本『ぞうのババール』を持ってきて、これに合うものを弾いてよとおねだりしたそうです。これがきっかけとなって作曲をはじめ、戦争中とあって何度も中断しながらおよその下書きを完成させます。
 1940年というと、ナチス・ドイツがフランスに侵攻した年です。プーランクが滞在していたブリーヴ=ラ=ガイヤルドという街は、第二次世界大戦中、主要な抵抗運動の中心地で、自力でドイツ軍から解放を勝ち得た最初の都市といわれています。
 さて、プーランクは、数年後に少し大きくなった子ども達から「ババールのあの音楽はどうなったの?」と催促され、やっと大戦終結の1945年に完成させました。翌年ラジオ放送で初演、コンサートではプーランク自身のピアノで1949年に初演されています。
 お聴きになってわかるように、ピアノと語りが分かれている場面、語りがピアノに重なる場面があって、特に後半の戴冠式から舞踏会の場面は、音楽的に展開が速く、スリリングに思われることでしょう。
 語りと曲調が必ずしもぴったり一致しているわけではなかったり、大事件なのにびっくりするほどあっけなかったり、プーランクがあえて外しているのかなというようなところもあって、お楽しみいただけることと思います。
 スイング感があったり、重厚だったり、叙情的に歌い上げたり、不協和音が響いたり、プーランクの魅力がすべて詰まっている、代表作の一つといえるでしょう。
 日本語では、岸田今日子、忌野清志郎の朗読によるCDが出ています。

■プーランクという作曲家
 「ガキ大将と聖職者が同居している」「メロディーを持つ20世紀最後の作曲家」と評されたり、フォーレ嫌いだったり、製薬会社の三代目で超裕福だったりと、多くのエピソードがあるわりに作曲家として有名でない感じなのは、やはり宗教曲や室内楽曲が多く、交響曲と無縁だったせいかもしれません。
 幼い頃からピアノを始め、14歳でバレエ・リュス(Ballets Russes ロシア・バレエ団)の『春の祭典』(音楽ストラヴィンスキー、振付ニジンスキー)に感銘を受け、その後同じバレエ・リュスでサティ作曲、ピカソ美術、コクトー台本の『パラード』に感嘆したことで、彼の方向は決定付けられたといってよいでしょう。
 父親は彼が音楽の道に進むことに反対したため、正規の音楽教育を受けられなかったのですが、それが彼の作風の幅広さ、破天荒さにつながっているのかもしれません。
 静謐な宗教音楽を書く一方で、宗教音楽のスタイルでナチス・ドイツ占領下の人々を鼓舞するようなポール・エリュアールの詩に曲をつけたカンタータ『人間の顔』(1943)を匿名で発表するなど、振幅の大きな思想、作風が魅力的です。

■フランス6人組
 プーランクは「フランス6人組」の一人とされています。20世紀前半のフランス音楽を代表するのが、ドビュッシー、ラヴェルに続くこの6人だったと言っていいでしょう。とはいえ、実質的に6人で活動したのは数えるほど。6人組のメンバーとは、パリ音楽院の同期生だった①オネゲル、②ミヨー、③タイユフェール(女性)。サティと共に「新しい若者のためのグループ」のメンバーだった④デュレ、オネゲル、⑤オーリック。サティの『パラード』に感銘を受けた⑥プーランク の6人です。
 友だちの輪が広がって6人が仲良くなり、1917年に開催されたコンサートで6人の作品が一堂に会したことがきっかけで、詩人のジャン・コクトーが印象派のあとの新しい傾向として取り上げて知られるようになりました。ロシア5人組(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ)になぞらえたこともあり、一まとめで名称が世に広まることになったといわれています。

□3つのノヴェレッテ
 プーランクのピアノ曲で、1,2番は1928年に作曲され、3番は1958年に作曲されています。ノヴェレッテとは、小説(Novel)から来る言葉で、短編小説の意。シューマンの「ノヴェレッテ」 作品26にならったともいわれています。1番は叔母と呼んで親しかったリエナール夫人、2番は評論家ルイ・ラロワに贈られており、3番はファリャのバレエ音楽『恋は魔術師』の「パントマイム」の主題を使っています。

□お前がほしい
 エリック・サティ(Érik Satie 1866-1925)が作曲した、きっと誰もがどこかで聞いたことのある一曲。作曲当時サティはカフェやキャバレー用の歌や伴奏を作曲したり、ピアノを弾いたりして生計を立てていました。もともとは歌曲で、男性用・女性用の2種類があり、かなり濃厚な恋の歌です。
 サティは「音楽界の異端児」と呼ばれ、調性を放棄・無視し、小節線を用いず拍子からも自由になり、BGMや環境音楽のような「家具の音楽」を提唱するなど、時代を先取りする実験的手法が多く見られました。
     ★
 この「ミジカムジカ」のシリーズでは、第2回(今年3月)に、「レオ=レオニを聴く」と題して、『おんがくねずみ ジェラルディン』という絵本を取り上げ、フルート、ピアノ、朗読の公演を実施したことがあります。この時は、決められた音楽があったわけではなく、ストーリーに合わせて音楽を選ぶという作業を行いました。
 今回の言葉と音楽の組み合わせは、作業内容は違いますが、それに続くものです。
 これからもさまざまな形で、絵本や詩、短編小説など、言葉と音楽を組み合わせた公演を行いたいと思っています。取り上げたらよいのえはないかという題材があれば、ぜひご提案ください。
 今後とも、どうぞお楽しみに。

(じょうねんしょうぞう 本シリーズの企画運営。ダンス批評。神戸女学院大学・近畿大学等非常勤講師。西宮市文化振興課アドバイザー。国際演劇評論家協会日本センター関西支部機関誌「Act」編集長)

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