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妻帰天

 2月7日の薫の葬儀に際しては、平日昼間にもかかわらず、寒い中を押して、多くの方にお越しいただきました。本当にありがとうございます。また、SNS、メール、郵便等で、多くの方から薫にもわたくしにもあたたかい言葉をおかけくださり、重ねてありがとうございます。以下は、喪主あいさつの原稿に手を加えたものです。

 写真は祭壇に使ったもので、薫が大学4年生の時、ジョセフ・ラヴさんといって、イエズス会司祭、上智大学英文学科教授、美術評論家、画家であった方が主宰・引率する「ヨーロッパ美術の旅」に参加してベルギーのブルージュで撮った写真です。ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ベルギー、イギリスの名だたる美術館や教会をめぐる、ハードスケジュールながらも大変充実したツアーでした。
 美術そっちのけで薫はポップコーンを抱えてうれしそうにしています。このポップコーン、ぼくは分けてもらった記憶がありませんが…一人で食べてしまったのでしょうか。
 私たちはラヴ神父様から、最先端の現代美術、現代音楽、現代詩の見方を教えていただいたのみならず、聖書研究を通じて、薫は受洗させていただきました。長く信仰からは離れていたのですが、この12月になって、お葬式は芦屋教会で、お花いっぱいでお願いね、といったのでした。
 洗礼名のスザンナは、ヘブライ語でしたか、百合の花。ラヴさんが洗礼名を決めるにあたって薫の好きな花を聞いて決めてくれた名前です。今日、葬儀会社の方には、百合を多めでという無理なリクエストをさせていただきました。
 ラヴさんから道をつけていただいた現代の様々な芸術や文化への興味を、私たちはどんどん歩んでいきました。たくさんの展覧会、コンサート、本などを楽しむことができているのは、もともとそれらが好きだったことに加えて、ラヴさんの適切な方向付けがあったからだと思います。
 もともと薫は日本の古典文学も英語も好きで、都立富士高校時代、すでに岩波文庫の源氏物語を何度か通読していたというので、私などは驚いていました。卒業論文は和泉式部でした。在学中に新潮日本古典集成というハンディなテクストが刊行され、喜んでいたのを覚えています。「風だにも 吹きはらはずは にはざくら 散るとも春の ほどは見てまし」という一首を見つけました。
 薫は、三井ホームに勤務しながら、日本エディタースクール出版部の夜間講座に通って校正を学んでいました。書籍校正という仕事がずいぶんと性に合っていたようで、後に「緻密な構成をしていただいた同社の上念薫さんにもあわせてお礼申し上げたい」(黄順姫『同窓会の社会学』2007,世界思想社)、「特に上念さんの校正は「添削」といっても過言ではないような行き届いたもので、日本語の用法のみならず、論旨や説明方法についても気づかされるところ大であった」(上枝美典『「神」という謎 第二版』2007,世界思想社)、「校正者の上念薫さんのおかげで、私自身の考えもより深まったと思います」(田中茂樹『子どもを信じること』2011,大隅書店)等々、筆者から謝辞をあとがき等に記していただくほどでした。
 個人的にも、サルトル、ソシュール、レヴィナス、井筒俊彦などの思想家の著書を熟読し、また華道、そして最後まで茶道をたしなむというよりは追究しようとして、和服を着ることも楽しんでいました。
 この写真のように明るく朗らかな薫でしたが、十数年前に乳がんが見つかり、手術後は落ち着いたと思われたのですが、おととしの8月に再発がわかり、その時には既に頸椎、肺、胸骨、肝臓、そしてリンパに広がり、手術などの根本的な治療は考えられないという段階でした。
 そこで私たちは、生活の質、QOLを第一に考え、副作用がないと思われる東洋医学を中心とした療法で対応することにしましたが、夏ごろから腕の痛みやしびれ、12月半ばごろになって体力の低下など日常生活にも支障が出てきて、何とか春までは生きたい、がんの勢いを抑えたいと、五分五分の可能性、ぎりぎりのタイミングでしたが、抗がん剤治療を始めることにしました。
 12月半ばには、「調子がよくないの。自分の晩ご飯は自分で何とかしてくれるかな。それから、アイロンもお願い。私、春までは、ちょっと難しいかもしれない」と言いました。そんな状態まで家事をしてくれていたことを申し訳ないともありがたいとも思いましたが、弔問に来てくださった方から、最後まで、少しでも、薫さんはしたかったのよ、と言われ、そうか、と思いました。
 1月10日に甲南医療センターに入院し、2回目を過ぎ20日ごろまでは順調だったのですが、その後、肝臓の機能低下による血中のたんぱく質の減少、腹水・胸水、白血球の異常、肺炎と、刻々と悪化したため、抗がん剤はあきらめ、緩和ケア、いわゆるホスピスに移ることを決意しました。主治医から状態を告げられ、はっきりと、「もう結構です、し残したことも悔いもありません。スマホが持てないし長い文章は打てないので妹に連絡しておいてね。それから、どうしても一度家に帰りたいの」と言いました。帰りがけに主治医は私には、帰宅は難しいといいました。それが1月31日です。妹にどう連絡したものか、もう明日にしようかと逡巡しながら、意を決して長文のやや混乱したLINEを送りました。
 翌日2月1日朝、職場に電話があり、腸から数百ミリリットルの出血があった、意識ははっきりしているが、と連絡があり、ちょうど千葉からやってきた妹と合流しました。緩和ケア病棟の主治医から薫に、今の状態を自分でどう把握しているか説明してくださいと言われ、驚くほど明晰かつ順序だてて、現状の理解とこれからの希望を伝え、妹と私に感謝の言葉を述べ、また、家に帰りたいといいました。
 非常に厳しい状態の中、病院と地元のあんしんすこやかセンターが驚くほどの速さで様々手配してくださり、2月2日の昼過ぎに帰宅しました。病院からの車の中で、すでに脈と血圧が測定不能の状態だったそうです。
 落ち着いて二人きりになって、モロゾフのプリンをほんの一口口にし、宝塚歌劇星組博多座公演「Me and My Girl」のブルーレイを天井に写し、好きだったシューマンのCDをかけました。譫妄も起きており、うわごとを言う時間もありましたが、呼ぶと戻ってきて、にっこりして、家にいることを喜んでいました。
 両手を挙げて揉むようにするので、どうしたのと聞いたら、「手を洗いたいの」というので、水かタオルを持ってこようかというと、「そういうんじゃないの」というから、マクベス夫人みたいだねというと、「そうなのよ」と大声でいうので、一杯お芝居観たね、野田秀樹の「農業少女」や「ライト・アイ」、鴻上さんの「トランス」、時空劇場、大阪新撰組、桃園会…と言ったら、「そう、私、見た、見たよ」とまたはっきりと言いました。展覧会のこと、お茶やダンスのことも話しました。そのほか、「ありがとう」「だいじょうぶ、だいじょうぶ」「ずっと一緒、宇宙の果てまでとかもうそんなんじゃなくてずーっと」「いろいろ教えてくれてありがとう」…いろいろ言ってくれました。
 一度は、はっきりと目を開いて、両手を上げて、ぼくをハグしようとしました。
 日付が変わって1時ごろに、はっきりした言葉が出なくなりましたが、声が出ているから大丈夫だとも思い、どうもぼくは少しうたた寝をしてしまったようで、気づくと1:40頃で、静かになっていました。
 日付が変わりましたので、2月3日、立春。春まで生きました。
 その後訪問看護師さんがきれいにしてくださり、好きなお洋服とかおわかりですか、お着物とか、と言われたので、和服でもいいんですかと言って、一緒に選んだのが、今日着ているものです。喜んでいると思います。
 最後まで自分で調べ、自分の意志で自分のことを決め、実行し、そのことを例の、みなさんご存じの鈴のように軽やかな明るい声ではっきりと表わしました。本当に最後まで。
 ぼくは、ちょっと恥ずかしいのですが、彼女のことをりんちゃんと呼んでいました。かおる、かおりん、りんちゃんですね。
しゃれみたいですが、凛とした、美しい生き方でした。
 りんちゃん、そしてみなさん、本当にありがとうございました。

                 2月9日
                         上念省三

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