アナログ世界とデジタル世界の狭間

ストーリーの始まりは、不協和音

アナログ世界とデジタル世界について考えるきっかけは、ARが今後最も注力すべき領域だ!と社内で説くシーンがあり、周りにポカーンとされ、別にARはなくてもいいんじゃない?と言われた瞬間が脳内世界で分岐点に立たされた瞬間である。

基本的に、私はロジカルに言語化して説明するようにしているから、ロジカルな人というイメージを持たれがちだが、実際は逆でイメージ先行型。ただこのイメージをイメージのまま伝えても伝わらないので、言語化という行為をしている。

Web3の説明に誰か腹落ちしているだろうか

さて、本題。
Web3の説明で、Web1.0は「静的で、情報の流れが一方通行型」、Web2.0は「静的に加え動的で、情報の流れが双方向型」、Web3は「情報が中央集権型からの解放」というのが良くある説明で、いまいちしっくりこない。解像度もジャンルも異なる説明がWeb3だけされているからである。

だいぶ本音トークがされるようになり、Web3はまだコンセプチュアルなものであって、それが何を生み出すことになるかは誰も知らないという人も増えてきたように思う。

デジタルとアナログという観点で眺めてみる

そこで、別視点でこれらを眺めていったときに、ARやOCRは、情報は情報でも物理の世界にあるものをデジタルの世界に取り込む、またはデジタルの世界にあるものをフィジカルの世界でも疑似的に取り込む行為だと思った。

結局のところ、人間が目で見る、手で触れる、匂いを嗅ぐなど五感をもって情報を授受する際に、デジタル空間からフィジカル空間へ変換する処理がされ、それはいわば情報を量でとらえたときに一度デジタルからアナログへ変換していることになる。

つまり、人間そのものがフィジカル空間にある以上、情報を受け取るためにはアナログへ変換することが必須で、人間が情報を受け取ったと認識する段階でそれはデジタルではなく、アナログになっている。

その観点で見ると、
Web1.0は「デジタル→(Webサイト)→アナログ」Web2.0は「デジタル⇔(SNS)⇔アナログ」という点では同一であり、一方Web3、とりわけメタバースは、「デジタル⇔(メタバース空間)⇔デジタル」ということで、物理世界におけるアナログを、人間も建物もフィジカル世界に置かれているすべてをデジタル空間に放り込んでしまえば、完全なるデジタル空間ができる、ただし、人間や建物などフィジカル世界で”一意”に存在していたものがデジタル空間となって失われるため、それに”一意”を与える取り組みがWeb3・ブロックチェーンなのではないかと現時点では理解している。

つまり、中央集権型からの解放ではなく、アナログからの完全開放が本来的なのかなと。 ともすれば、メタバース空間という市場はそれはそれとして存在しつつも、デジタルツインの言葉通り、フィジカル空間におけるデジタル・アナログの両立という現在が、完全にデジタル空間におけるデジタルのみのものにはまだ行かず、この2種はツインのまま存在し続け、とりわけ人間の大半がデジタル空間へ完全引っ越しをしない限りは、前者がデジタルツインの主であり、完全デジタル空間は主の裏で存在しうるもう一つの世界でしかない時代がしばらく続くのではないかと思う。

そう考えると、メタバースという完全デジタル空間を意識するのではなく、主となる世界においてデジタルとアナログの行き来が基本となることを考えれば、その変換器なるものをいかに用意していくかが肝である。コミュニケーションの世界においては様々なSNSが生まれ、デジタルとアナログの相互関係を成立させつつあるが、それ以外では、まだデジタルとアナログがうまく組み合わさっていなく、デジタルはデジタル、アナログはアナログという形で処理される、もしくはその変換を技術保有している者のみが対応でき、そうでない者はそれ相応の対応をフィジカル世界の論理で対処し、なんとかデジタルとつなげようと手間や時間やカネをかけて対処しているみたいな感じではないかと思う。

ARはデジタル空間のものをアナログ空間へ持ってくるマシーン

ARはその点、デジタルをフィジカル世界にデジタルデバイスを通じてデジタルそのものを疑似的に出現させる点ではやりやすい一方、VRはフィジカル世界にある人間の体はどうしても疑似的でもデジタル化はできず、脳内の電波信号のみをデジタル世界に送ることしかできないがゆえに疑似的な成立が難しく、疑似的な一体感を得られず、違和感が存在し続ける。ただ、VRも人間の体を実際必要としないケースにおいてはその違和感は存在しない。例えば、手足を動かさず、ただ映像を見るというだけの行為の場合、そこではアナログはなく、デジタルのみが機能しているため、デジタル空間への疑似的な完全没入があり得る。

OCRの場合は、元の情報が紙の上に載せられた情報ということがあり、いくらPDFにしてもそれは”紙の上にある情報”という塊をデジタルにしただけであり、紙からのPDFは偽デジタルでアナログと何ら変わらない。ただ、それをOCRという技術を通して、”紙の上にある”という条件を除き、情報のみをデジタル変換することで、デジタルとアナログの両立を成立させている行為と捉えることができる。

デジタル空間の存在がもたらしたもの

物質の反対語が精神だった頃、それはアナログ世界の範囲で空間の有無という点で違いを見出した末の結論であったと思う。
その空間の有無の違いには、いくつか代表的なものがある。時間と質量、そして可視である。しかし、デジタルというものが産みおとされた今、その狭窄的概念はあくまで一部であることを思い知らされる。なぜなら、デジタルという空間が生まれることで、空間がありながらそこには時間、質量という要素がなく、なんなら可視も必ずしも存在しなくてもデジタル空間の中で、存在しうるというのがデジタル空間だ。つまり、空間有無ではもう物質の反対語を作ることはできない。

もう一つ。重要なのは時間だ。アナログ世界は時間に支配されるという特徴を持っている。本来、時間はアナログでもデジタルでもないが、アナログ世界においては時間はアナログという性質を強く持つ。だから、明日老人になることもなければ、明後日赤ん坊になることもできない。この時間を超越するために人は精神という世界を生み出したのかもしれない。しかし、今や、デジタル世界ができることで時間という概念がアナログでなくなり、アナログ世界における時間という概念は意味をなさない。我々がドラえもんの世界で見る、22世紀はもしかしたらデジタル空間で生きる人間模様を示しているのかもしれないとすらも思う。

私の解釈では時空を飛ぶ=時間という概念の無価値化を意味するのではないかと。デジタル世界は時間の無価値化をする取り組みとも捉えられる。

ただ、まだまだ22世紀の世界は訪れず、人間という最大のアナログという物体がデジタル世界でVtuberなり、アバターなり複製されても、アナログとしての存在は残り続けるからだ。

今は人間というアナログ的存在が遠くも近い未来に訪れる分岐点までの束の間

そう考えると、当面はどうアナログをデジタル世界へ持って行くかより、デジタル世界のものをどうアナログ世界へ持ってくるかが一番現実的で、アナログ世界に描写されたデジタルを享受する世界が普通になったら、そこにアナログもデジタルも識別できなくなる未来ができることで、初めてアナログの真価が問われ、そこでマトリクスのような完全デジタル世界への移行か、アナログ世界の存続かの分岐点に再度立たされるのだろう。

今は、その束の間の時間をアナログ世界で過ごす時期なんだと、私は思う。

デザインやらUIは、このデジタル空間のものをアナログな人間という受信機に渡すためのインターフェースだと考えれば、デザインがいかに必要かは自明かと思う。ただ、そのインターフェースはデザイン以外にも表現方法はあり、その一つがARだと。VRもインターフェースには変わりないが、その向きが異なる。その違いを理解して使えば、VRもなかなか面白し、アナログを意識せずデジタル空間に浸るための良きツールだと理解できる。

そんな現在地で感じた分岐点を未来を見据えた分岐点から眺めた現在地を感じたところで、このメモは終わりにしようと思う。




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