あたしの一生 猫のダルシーの物語
あたしの一生 猫のダルシーの物語
ディー・レディー著 江國香織訳
猫と暮らしたことのあるひとにとっては涙を堪えられない物語だろうなと思いました。
だって犬としか暮らしたことのない私でも、泣かずに読むなんてことは不可能やったしさ。
やー、とても無理。
あたしの一生。
「あたし」と「あたしの人間」の出会いから別れまでの17年4ヶ月と1日の愛の物語。
終始「あたし」こと、猫のダルシーの視点で描かれています。
訳者の江國先生もおっしゃっているのですが「あたしの人間」が悩んだり悲しんだりして夜な夜な涙している、というシーンがあります。
「あたしの人間」が「悲しんでいる」ということが賢いダルシーにはわかるんです。
ですが、あくまでも「猫」である「あたし」
「ダルシー」の視線で綴られた物語なので「あたしの人間」がなにに悩み、どうして悲しみを抱いていたのかはわからないままなんですよね。
「あたしの人間」が波を乗り越え、彼女に笑顔が戻ってさえくればダルシーはもう大満足で彼女に抱かれるのです。
一瞬ね、
結局「あたしの人間」にはなにが起こっていたんだ。
毎夜泣くほど、しばらく家を空けるほどの悲しみってなんやったんやろって、小物な私はちらりと思ってしまったのですが(本当にすみません)
いや、これはダルシーの一生。ダルシーの心。
ダルシーは「あたしの人間」と熱烈に愛し合えさえすればそれでいいんだから、わからないままが当たり前なんやな、と、自然に考えが改まりました。
ここまで徹底して猫の視線で描かれた物語って実はすくないのでは。
動物が語り部になる物語って、なぜか動物が人間の社会にも精通していることが多かったような。
(それはそれで素晴らしく面白いです)
「あたしの一生」なので、それは色んな経験をしたということを教えてくれるんですよ。
人間はとても微妙な言語「猫語」を理解できないので、命令するためには鳴き声のいちいちをききわけられるようにしなければならない。
また、ボディランゲージの感じもつかめるようにならないといけない、と「あたしの人間」を訓練するシーンがあるのですが、その可愛いことといったら。
冒険もたくさん。
フェリーに閉じ込められてみたり
事故にあってしっぽをなくしてみたり
新入りに嫉妬してハンストしてみたり
キャンプへ行ったり
狩りをしたり
老いて、弱って、病気をして、耳も聞こえなくなって、
お別れの日には「あたしの人間」へあいさつをし、最後の歌を歌って。
(ダルシーは作中でいろいろな歌を披露してくれます)
すばらしい日々、愛の日々、愛の物語。
私はどうしても一緒に暮らした犬のことを思い出してしまって、ラスト50ページはくしゃくしゃになりながら読みました。
私のあの子。
母犬に、なぜかひとりだけ育児放棄されて、縁あって我が家に来てくれたあの子。
トイプードルのはずだけど、会う人会う人に「この子はトイの大きさじゃないやろ」と驚かれるほど大きく育ったあの子。
人間も犬も鳥も大好きだったけど、子犬の頃に猫にいじめられたことが忘れられずに、猫のことだけは怖がり続けたあの子。
月に一度トリミングしてもあっという間にもじゃもじゃになっていたあの子。
海の近くの公園を散歩するのが好きだったあの子。
ずっと元気だったのに、急に、急激に体調を崩して、2週間も介護させてくれなかったあの子。
13歳と2ヶ月で虹の橋を渡って行ったあの子。
いつも思い出すよ。
ダルシーの言葉どおり、私のあの子がいなくなったあとは、彼女との思い出が私をなぐさめてくれています。
ダルシーの一人称が「私」じゃなくて「あたし」なんが、なんともいえず愛らしいやね。
次の日に予定がない日に号泣しながら読むべき物語です。
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