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私は誰というか何者なんだ?

純粋に人に経歴を話すとかなりカオスであることは自分でも認知していたけど、確かに19でいきなり充てもなく東京に出てきて

最初はアパレル販売員

その間、あまりにも収入が無くて夜勤バイトとかを掛け持ちしてまして、お金が無さすぎるというのはすでに書いていたので割愛

次もアパレル販売員で最初同様バイトで掛け持ちようやく、人並みの生活していたのが22くらいかな?この時、人生でもっとも過酷な労働環境で、下手すると寝るのは移動時間で、次のバイトにということやってた。無限のスタミナだったので、エナジードリンクでドーピングし、それが切れて何往復もした時代、、、寝不足だった私はゆりかめで「わーフジテ〇ビだ!!」っていってはしゃぐ人に殺意の目を向けていましたね!! ちなみに埼京線が臨海線とつながる前からだったので、繋がったときはかなり楽になった。前述の所沢⇔お台場という片道90分以上の通勤時代です。(一回だけ所沢⇔お台場を自転車で行きました。)

この2つ目のアパレル販売はかなり特殊で、ぶっちゃげ売らなくてもいい、しかもアスリートや芸能人を相手にする非常に変わったスタイルでした。

上記3つを辞めて派遣のアパレル何でも屋さん、服屋の販売員は実は結構四六時中やることがある。その中でも在庫管理が大体おろそか、大きいブランドになればなるほど、あの店舗にこの在庫があれば売れたなのに、でもあの店舗とかあの店舗には在庫がある。誰かが管理すれば、しかも販売が出来る人がいれば、、、という需要にマッチして中々の給料?時給で雇ってもらった派遣社員が爆誕した。(ちなみにこの時の年収は派遣最高潮時代なので、年収がとんでもねーことになっていました。)

この仕事は、最初のアパレル販売をやっている時に養われたもので「おまえの代わりはいくらでもいる!!」そう言われて何でも出来るようになりたかったバックボーンがある。通勤途中に「ごめん!今日売り上げ最悪だからカットで!」と言われてカットされたりした時代。ハチャメチャに外資で資本主義だった。だから自分が出来ないことがなければシフトに組まれるハズ!なんでもできるのは最高!!万能こそが生きる道!!それを目指した結果の謎の派遣社員だった。

ここで、一度最初のアパレル販売に戻り、でもやはり収入が。。。という理由で転職した。

その次は、アパレルの川中の企業で正社員のアパレル営業、これがクッソ暗黒面の時代、ドラマに出ていたアイテムを模造して量販店に売るというシステムで頭の回転だけが必要な販売員のスキルや在庫管理のスキルなど役に立たなかった。。。これは一か月で止めたそれ以前がまだマシなのでは?というクラスの暗黒だったんですよ。

そして、再度よくわからない何でも派遣アパレルの人に戻り、あらゆる百貨店ですでに研修を受けていたので店長クラスが休暇を取る人の代わりに色んな店、ブランドに行き暇があれば店舗間の移動をしていた。

ここまでが純粋なアパレル時代、24歳までの流れ すでに何者だよ?感がある色んな会社を渡り歩いたおかげでアパレル営業の人、百貨店の部長さんとかと仲良くなった。「次ウチに来てよ!?」そんなことを言われてたなという時代。 次は唐突に職業が変わります畑違いの時代 それではこの辺で

いい週末を~

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