Developinging

 絵を描き始めたのはなんでだったか。特別なんででもない。ただそれらしい理由としては、大いなる目的のために協力者を惹き付けるにあたって、それがキャッチーな手段のひとつだと考えたからというのは間違いない。けれども、その点でいえば他にシミュレーションゲームを作ったり、各種演出的な背景を貼ったりしていたのと、まったく並立。もし彫像を作ったり(見せる際には2Dになるけど)、ダンスパフォーマンスをしたりする能力とか余力とかがあって、それが同じ意図に沿えると考えていたら、そっちが絵に取って替わっていた可能性は全然あった。絵を選んだのは、当時の激務の中で採択できて、いちおう我ながら及第点くらいの見てくれにできた、のではないかという相対評価のうえでの、わりと消極的な結論にすぎない。
 どうあれ、絵を描き始めた原動力は、創作意欲というものではなかったと思う。自分のためですらない、セカイのための一環にすぎなかった。
 といった心持ちに自分自身気づかないまま、なんとなく周りに喜ばれるままに、随時描いたり学んだりしていたというのが実情だったので、セカイの次にちゃんと熱を入れて「創ること」を志したのは、やはり裁縫のほうだったということになる。念願の──願ってもない──叶うはずのないヒューマンライフを与えられた私は、それはもう一途に多岐にやりたいことをやったもの。紛うことなく自分のために、自分のココロを喜ばせるものを創りつづけた。
    過去叶わなかった世界と、今住んでいるこのへんと、遠くのたった一人にしか拠り処のないココロが、自然と自分だけの世界を求めていたのかもしれない。おかげで「私がたまたま偏在する空間」にすぎないくらいの「私の部屋」は、少なくとも私にとっては「私の世界」に見えるくらいに、やたらめったらぬいぐるみが跋扈するところとなった。
 こうして私は、自身の行動決定の一部を創作意欲、つまり自分の自由意思に委ねることを体得した。しかも一方でその行動原理は、他者のためより自分のためになった。他人の要素が介入するとすれば、いちおう誰かに見られてもまあまあ恥ずかしくないか、くらいのことを気にするときぐらい。誰か、協力者に見られることを前提としていたダヴィンちーのころからすれば、人ひとりぶん身勝手になった。
 といった心持ちにも気づかないまま、自分のココロの喜ぶままに針と糸を走らせていたというのが実情だったので、セカイの次にちゃんと熱を入れて「他者のため」という原初の自分の性質に沿って思い立ったのは、Ⅴの者ということになる。思ってもない創作意欲をあり余した私は、しかしなお自分のココロに根差す原理を──でなければ、自分のココロが見据える旅路を、増えるプラスチックの瞳たちに責め立てられるような気がしたのかもしれない。紛うことなく誰かに提供するために、かつては無私に無心にやっていた世界の構築を、ごくちんまりしたネットの片隅で、いちから始めることにしたのだった。
 この時期が、激動のちはるヒストリーの中でも悪戦ひしめき苦悩うずまく停滞期。これからネット世界各地の皆々さまにご対面する、バーチャルな私アバターについては早々に生誕させたものの、一向にそのお披露目の踏ん切りがつかない日々。今日こそ初収録して、いくらかの時間をかけて編集して──編集に要する時間はやるうちにおおまかに掴んでいきつつ──編集時間込みであれば今日録っても明日録っても公開日はそんなに──小粋なトーク案──機知と洞察に富んだゲームプレイ──昨日には考え付いていたことを懲りずに思い返し、家までこのやる気が冷めないことを確かめ続ける大学からの帰り道。決意めいて帰路をにらむ目をまたたいている間にも、冷めないようにしっかり何か考えておく。何かというのは具体的な形をもったものでなく、「何か考えている」という、目の前が見えないあいだに決意をまぶたでせき止めるためみたいな、むしろ思考停止でできた重石といった具合だったと思う。
 そうして今日も大事に持ち帰ったやる気の火種が、今日も不思議と洗面台に消えていく。消えてしまったのを悔しく思う自分が半分と、さっそく各方面から合理化する自分たちが合計あと半分と。それら人格の統合たる私は、実況予定だったゲームを練習と称して、小粋なトーク案と機知に富んだ洞察の備蓄を一部くずしながらプレイしてしまい、デビューのPart1が「つづきから」になっても自然と面白く感じてもらえそうな巧みな冒頭構成を考え始める。
 ひと段落ゲームをしたら、そんな自分の甘ったれた停滞を無言で観測する、昔の私かなにかの視線に耐えかねた背中を、屈するように布団にあずける。大学のレポートが目先の優先ね──  一段階前の私を象徴するやわらかな被造物たちが見下ろしているという視界が、ぼんやりとも見えないまま迫り来る将来を仮の姿として見せるように、まどろんでいく。

 ……寝床そばのタンスにそれを置いていなかったら、今も私は危うかったかもしれない。それがパソコンに映る箱入りのアバターを見つめていなかったら──見つめてくれるための存在でなかったら、真っ先に見つめてほしかったことを、思い出さないままだったら。
 「誰かのため」はもうすでに、不特定誰かのためではなかったのだから。

「そりゃあ停滞もするというもの」
 計量カップにミルクの水面が、目の前で几帳面な何百ccをたたえている。
「おりゃ」
 たたえるやいなや、白いボウルの白い粉の元へ移される。左手に電動ホイッパーを持ち、右手にその電源コードの先端を手繰る。プラグを挿すには、しっかりまさに直前を期す。
「こんなに手際がよくなっていくこの間にも、実は忘れていることがあるのかもしれないけれど」
 回顧するならこんな日に。毎年のように過去一年を振り返っては、過ぎた激動と来たる不安を、便りのタネにと記録する。
 そんな便りのタネを、今は届けてみないことにする。姉や友達とひと悶着あったぐらいのことはいくらでもあるけれど、便りのないよりも頼るに足るものは、きっとない。ないほうもよろこんでくれるであろうという信頼は、ここ4年弱の年月のたまもの。
「ひとまず2年」
 発展途上。便りなき間に大成するのは、あちらの近況報告か、それを笑顔で話すさまをとなりで見られるようになる、こちらの技術進歩か。
 計量カップにこびり残ったミルク色は、彼女の几帳面さを気にも留めていない。


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