紙の火蓋

「ふーむむ」

 腰ほどの位置でくびれてしわが寄っている以外に、目立った模様も色の変化もないワンピースの上で、銀白色のポニーテールがじっくり右往左往する。口を閉じて鼻から声を抜く「Hmm」を意識的に発音するブームは、もうそこそこ長く続いていた。

「お迷いか」

「うーん……」

 一般にはハレもケもない平日、じっとりと薄雲に覆われた空の下、列という列も一向になさない、ケーキ屋のショーケースの前。彼女が腰をかがめてから一分が経ったころ、ふっと顔が振り返った。

「マカロン嫌いじゃない?」

「嫌いじゃない」

「好き?」

「す……うん? うん」

「ん、よし。私もそれくらい好き。そうする」

 得心顔で前を向きなおし、かがんだ背を伸ばして、すみません、と店員さんに話しかけた。「今日は熟練のケーキ愛好家たるちーが、いいものを選んで進ぜようと思うので楽しみにしておいて」と言うので、こうして甘んじて見守りに徹している。千羽鶴にとって熟練のケーキ愛好家というのは、ご多分に漏れず人並みにケーキが好きな者の肩書きなのだろうか。

「みてみて」

 ふいに、お呼ばれを得て近づくと、果物が点々とあしらわれた、ちんまりと丸く白いケーキがあった。そこに載ったマカロンに向かって、しばらく彼女と話していた店員さんが、細身の絞り器を構えているところだった。

「おー……」

「妙技」

 みるみるうちに一行の筆記体が浮き彫られ、"i"の頭に点睛する。絞り器がケーキから離れると、どちらからともなく、ふたりでに拍手が起こった。マカロンには、衒いも他人行儀もない、ささやかなおめでとうが贈られている。

「去年もこんなだったけど、文面これだけでいいの?」

「うん。私たちのプライバシーの守秘とか、最大幸福とか、いろんな要素の絶妙な合一の上に成り立っている……とされる」

「なるほど、今のところ」

 そういうこと、と満足したように微笑む。要するに照れ隠しの表れらしい。代金を支払って、梱包されたケーキを受け取った。

 帰り道、雨が降らなかったことを千羽鶴は「何より」と言って、右手に持った傘をこつこつとついて歩いていた。

・◆・

「ハッピマリッジデーイとぅーみー」

ぱっちぱっちぱっち

「ウェディングデイらしいですよ」

ぱち……

「なにをいまさら。せっかく語呂が悪いのも恒例にしようというのに」

 むっとして、彼女は拍子を中断して合わせたままの手を、指をずらして組んでしまった。

「我が家ルールですか」

「そうです。さんはい」

 再び手のひらを合わせて、ぱっちぱっちと音頭をとる。キリのいいところを見計らって、二巡目の音程で歌いだした。

「ハッピマリッジデーイトゥーユー」

「ハッピマリッジデーイでぃーあ」

「ちはーるー」「あ、わたーしー……」

 なにかうっかり抜けていたらしく、フェルマータもそこそこに目をそらして「私か」と小さくつぶやいていた。

「ハッピマリッジデーイトゥーユー」

「みー。おめでとう」

 ぱちぱちぱちと、この家では一年を通しても有数の喝采が、同じく有数の唱和を打ち上げる。ふう、とふたりして一息つくと、さっそくテーブルの中央に座す白い箱に、彼女の腕がそそくさと伸びた。

「実際、いくら事情があっても、結婚記念日にひとまず片方だけが祝われるのはどうなの?」

 冷えた厚紙の箱をほどきながら、言わずにいたらしい指摘をさらけ出した。

「なにをいまさら。寂しい?」

「どうでしょ。まぁ、来月こっちが一方的にあなたを祝い返すのも、楽しみではあるのだし。保留」

 昼間見たままの丸いフルーツケーキが、改めて机の上にどーんと主役の座を占めた。

「どうよ。普通のいちごケーキばかりでなくなったちーの成長を感じてほしい​──あれ? 今日はとぅーみーじゃなかった?」

「不思議だねえ」

 相槌を打ちながら椅子を立ち上がり、自分から見た目半分になるようにケーキを切り分ける。唯一の例のマカロンが、クリームのまだらな金色の台座にとっておかれた。

「……やっぱり再検討を要する。私たちのウェディングデイ」

 千羽鶴はそうこぼして微笑み、包丁と銀色のフォークで、選んだケーキの片方をなんとか器用に自分の皿に持ち帰った。熟練のケーキ愛好家らしい素振りが、一年に一、ニ度のこの記念日のいよいよ佳境というところで、やっとはじめて見られた気がした。

・◆・

「​──甘いものに熱いキリマンはとても合うと思うのだけれど」

「うん」

 自分の皿についたクリームを、フォークでかりかりと集めながら、彼女の独白が始まった。

「キリマンが飲みやすい熱さになっているころには、甘いものは食べ終わってしまっている」

「なるほど」

「​──そんなご経験は?」

「あっ、自分ですか」

 飲みやすい熱さになっているキリマンジャロを楽しんでいるところに、そんな啓発が投げかけられた。今まさに、というか、つねづねなんとなく、「コーヒーと甘いものは合うと思っているが、甘いものを食べようと思って淹れたコーヒーが熱すぎて、実はちゃんと合わせられたことはないのではないか」と考えていたので、内容的には全面同意だった。

 ので​──

「飲みごろになっている今のうちに、このマカロンを食べておきたいなとは思うよ」

「……そう。なかなか戦意旺盛」

 ふ、と口角を上げて、フォークを置く。

「去年はうまくいったけれど、今回はどうなるかしらね」

 かつてケーキの鎮座していた金色の土台に、ぽつんとたたずむ薄桃色のマカロン。上面にいかにも美しい筆致で、しおらしい賛辞が浮かんでいるからには、そこに刃を入れてしまうことなどできない。かといって、

「千羽鶴が食べなよ、トゥーユーなんだし今日は」

「だめ。譲らないし譲られない。決闘あるのみ」

 というので、いたしかたない。戦る気にあふれているのは彼女のほうである。事ここに至っては、彼女に提案されているとおり、有史以来続くとても平和的な解決方法に頼らなければならない。

 ​──去年はうまくいったけれど、今回はどうなるだろう?


「じゃん、けん、どーん!!」

 最近の彼女の手は読めない。とはいうものの、そもそもこの決闘では、手さえ読めればどうにでもなってしまうというか、なんなら読むものではない。運命に任せて自分の出したい手を繰り出すのが、本来のゲーム性であるはずなのだ。

「​──あ」

 などと、そんな考えでいれば当然だった。なるほど、あれだけ彼女がやる気に満ちあふれるわけだと、悔恨を込めて納得した。

 次からはもっと熾烈な戦いになるだろう。そう心に刻みつけて、今はただ、したり顔でこちらに差し出された手のひらに、甘んじて従うばかりだった。

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