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白い月に歌は響く 第三章②

 朝、アリサは憂鬱な気持ちで目覚めた。あれから行った谷本の家は予想以上の散らかりようで、まず始めたのは大掃除と殺菌。渋る谷本を何とか宥めながら三時間かけてようやく掃除をすませ、ボード指導に移ったのだ。しかし谷本の覚えは恐ろしく悪く、まったくと言っていいほど進まなかった。溜まった疲れは朝起きても残ったままだ。

 朝食を食べる気にもならず、アリサはそのまま部屋を出る。すると昨日と同じように、路肩に谷本の車が停まっていた。窓を開けて顔を覗かせた彼は、アリサを見て怪訝そうな表情を浮かべる。

「なんだ、どうした。えらく疲れた顔して。ちゃんと寝たのか?」

 誰のせいだと思いながらアリサは無言で車に乗り込む。

「おいおい、不機嫌だな。低血圧か?」

 それでもアリサが無言のままでいると、谷本は舌打ちをしてアクセルを踏み込んだ。

 朝の街は出勤途中の人たちが多く行き交っている。この光景だけはきっと昔から同じなのだろうとぼんやり思う。いや、少し違うかもしれない。昔は通勤ラッシュと呼ばれる光景が首都圏の駅では見られたそうだが、今ではそんなものは見られない。ボード機能の普及により、自宅で勤務することが出来るようになったためではないかと、以前見た何かの番組で言っていたのを思い出す。自分も自宅勤務できる仕事に就けばよかった。アリサは密かにため息をついた。
 全く会話のないまま目的地に到着した二人は車を降りる。あの謎の歌手が所属している事務所のビルは意外と小さなビルだった。大手芸能事務所、というわけではないようだ。外来者用の入口へ行くと、壁に設置されたスピーカーから女の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ。どういった御用件でしょう?」
「昨日、電話をした谷本だが」
「谷本様ですね。では、IDを確認します。ボード、またはカードをお入れください」
 谷本はボードを折りたたんだまま扉の横にあるリーダーに入れる。ボードには個人情報も記録されているため身分証として利用されている。しかし一部の国民はボードを持っていないため、IDカードも支給されているのだ。どちらを使用しても問題はないが、アリサはボードしか使ったことはなかった。

「はい、ありがとうございました。どうぞ、お入り下さい」

 女の声と共にドアが開いた。入ってすぐに受付のカウンターがあり、そこに座っている女性が「三階へどうぞ」と笑顔を向ける。満面の笑みだ。アリサは自分にはこの仕事は絶対無理だと思いながらエレベーターに乗り込んだ。
 三階はデスクが並ぶ大部屋となっており、十数名の社員がじっとデスクに向かってボードを見つめていた。二人が部屋に入ると、大部屋の奥から若い男が「谷本さんですね?」と近づいてきた。

「黒沢です。昨日はどうも」

 彼は言いながら右手を差し出した。谷本は握手を交わすとアリサを紹介する。

「それで? そのミライさんとやらはどちらに」

 室内を見渡しながら谷本が尋ねる。すると黒沢は厳しい表情を浮かべて「よろしいですか」と小声で言った。

「くれぐれも彼女のことは内密にお願いします。もし世間に彼女の情報が洩れでもしたら、あなた方を訴えますよ」
「わかってますよ。昨日も何度も約束したでしょう?」

 黒沢はアリサの方に顔を向け「あなたもですよ」と念を押す。頷くアリサを彼は疑わしそうな表情でじっと見つめていたが、やがて仕方なさそうにため息をついて「では、ついて来て下さい」とエレベーターに乗り込んだ。

「……きっと話しても無駄だと思いますよ。どんな事件か知りませんけど」

 扉を見つめながら黒沢は言う。

「ま、それは話してみないと」

 軽く返した谷本を黒沢は横目で見たが、何も言うことはなかった。エレベーターは一階で止まり、二人は促されるまま建物を出た。

「彼女、この建物にはいないんですか?」

 アリサは足早に歩く黒沢の背中に尋ねた。横で谷本が「やっと低血圧脱出か」と小さく呟いたのが聞こえた。

「ええ。ここは会社ですから。彼女はうちが管理するビルの一室に住んでいるんです」

 振り向きもせず黒沢は言う。

「管理するビル?」
「あそこです」

 彼が指した方向には十数階建てのビルがある。まだ建てられてあまり経っていないのだろう。白く、綺麗な外観のビルはデザイナーズビルとでも呼ぶのだろうか、変わった形をしていた。

「へえ。オシャレなビルですね。所属タレントさんの寮か何かですか?」
「いえ、レコーディングの為の施設です」

 黒沢の答えはそっけない。どうやらこの男は、あまり質問に答えたくないらしいとアリサは気付き、黙っていることにした。それは谷本も同じようだ。下手に機嫌を損ねては面倒だと判断したのだろう。

 ビルに着くと黒沢がロックを解除して正面入り口の扉を開けた。エレベーターに乗り込み、最上階へと上がって行く。最上階にはいくつか部屋が並んでいたが人の気配はない。静かだ。静かすぎる。まるでホテルのフロアのようだ。
 黒沢は一番奥のドアの前で立ち止まると、パスコードを打ち込んでロックを解除した。そしてこちらを振り返る。

「いいですか、くれぐれも――」

「わかったっつうんだよ。さっさと開けろ」

 面倒くさそうに谷本は言うと黒沢の制止を振り切ってドアを開けた。二人が中を覗くと、ソファに腰掛けて不思議そうにこちらを見つめている一人の少女の姿がある。
 わずかに茶色がかったセミロングの髪に、色白で幼い子供のような綺麗な肌。大きな瞳は何も見ていないように透き通り、その色は湖の水面を連想させた。歳は十七、八くらいだろうか。黒沢が少女にアリサと谷本を紹介する。しかし彼女には何の反応も見られなかった。

「あー、と。じゃあさっそく聞きたいんだが。……あんた外出ててくれないか?」

 谷本の言葉に黒沢はとんでもないとばかりに首を横に振った。

「彼女からも言われてます。僕も一緒に話を聞きますから」
「彼女から? いいのか?」

 谷本が聞くと彼女は頷いた。谷本は頭を掻きながら「まあ、いいか」と話を続けた。

「じゃあ聞くんだが、あの歌は、あの新曲な。あれの歌詞はあんたが書いたんだよな?」

  谷本にしては珍しく優しい声である。一応、気を遣っているらしい。彼女は頷いた。

「どうやって書いたんだ?」

 彼女は首を傾げる。

「ああ、そうか。質問が悪かったな。えっと、どうやって思いついた? 何か実際に起こった事とかモデルにして書いたのか?」

 また首を傾げる。その様子を見てアリサは不思議に思った。なぜ話さないのだろうか。谷本も同じことを感じたのだろう、今度は質問を変えて聞いた。

「あんたの名前は?」

 しかし彼女は答えない。すると様子を黙って見ていた黒沢が後ろから口を挟んできた。

「だから言ったんですよ。話しても無駄だって」

 谷本は一変して険しい表情を黒沢に向けた。

「どういう意味だ?」

 黒沢は口の端に笑みを浮かべている。

「ミライは喋らないんです。歌うことしかしない。僕も会話した事はないですから」
「何?」

 谷本は威嚇するように黒沢に詰め寄る。

「喋らないだと? じゃ、どうやってこの子と仕事の契約したんだ」
「か、彼女は喋らないが、自分の意思表示をすることはできる。知能的に問題があるわけじゃないので契約は十分成立する。ちなみに言っときますが、彼女はここに来てからの約一年間、外出は一切していませんから」

 黒沢は引きつった表情で後ずさり、壁に背中をつけた。

「一切? お前ら、この子をここに閉じ込めてんのか!」

 谷本が壁をバンッと叩く。黒沢はビクリと震えながらも、必死に首を横に振った。

「ち、違う。彼女の意志で出ないんだ。中からちゃんと鍵は開くようになってるし、下の入口のパスワードだって教えてある。でも、なぜか出ようとしない」
「……あの、彼女の名は本名ですか?」

 黙って聞いていたアリサは疑問を口にする。黒沢は谷本から逃れると、乱れた髪を撫でつけながら答えた。

「ええ、本名ですよ。彼女のボードに名前があったので。あ、無理にデータをこじ開けたとかじゃないですよ。彼女が見せてくれたんです。働く為には名前が必要だから教えてくれって言ったら……」

 谷本はフンと鼻を鳴らした。

「親は? この子は未成年だろ。未成年の労働には保護者のサインが必要だが」
「彼女は孤児なんですよ。登録されてあった住所は民間の施設だったんです。そこの責任者にサインをもらいました」
「本当かねえ?」

 谷本は疑わしげに黒沢を睨んだ。黒沢は額に汗を滲ませながら谷本から距離をおく。

「本当ですよ! ミライ、君のデータをこの二人に見せてやってくれないか? 名前と、君がここに来る前の登録住所だけでいいから」

 すると彼女はゆっくり立ち上がり、棚の引き出しを開いた。そして中にあったボードを取り出すと、実にゆっくりとした動作でデータを表示させた。谷本とアリサはそのデータを覗き込む。

 登録名 ミライ
 登録居住地 ピースホープセンター

 その後ろには端末番号が続いている。

「おかしいですね」

 ミライのデータを確認したアリサは首を傾げた。

「なにがだ?」
「名前ですよ。どうして名字がないんでしょう? 生年月日もないし」
「さあな。非公開設定にしてんじゃねえか」
「そうですか……」

 アリサは呟きながら黒沢を見たが、彼は無表情にミライを見ているだけだった。谷本はたいして気にした様子もなくミライのボードを指差した。

「もう一度聞くから、ここに入力して答えてくれないか? あの歌の歌詞はどっからヒントを得た? どういう風に思いついた?」

 ミライは少し考えたあとキーを押して谷本に見せた。

「わからない、か」

 谷本はため息をついた。そして黒沢に「今日はここらで失礼します」と顔を向けた。黒沢は笑みを浮かべて「そうですか。お役に立てなかったようで」と頭を下げる。

「そんなことないですよ。嬉しそうなところ申し訳ないが、また後日伺うと思います。一応、あなたに直接連絡を取るようにしときますので」

 谷本は言いたいことだけ言うと部屋から出て行ってしまった。アリサは「あ、失礼します」と黒沢に頭を下げると急いで彼の後を追った。谷本はそのまま足早にエレベーターへと乗り込んでいく。

「おい、何やってんだ。早くしろ」

 アリサは急かされながら閉まりかけたエレベーターに飛び乗った。

「島本、急いでピースホープセンターの所在地を調べてくれ」
「何ですか、いきなり」
「流れでわかるだろうが。次はそこに行く」
「……なぜですか? なんか、調べる対象ずれてません? 谷本さんが知りたかったのはあの歌の歌詞がフィクションかノンフィクションかということであって、ミライ個人についてじゃなかったですよね」

 谷本はポケットに手を入れて少し上を見上げた。

「あの子が本当は何か知ってるかもしれないだろう。いや、絶対知ってる。話さないのなら調べるまでだ。聞き込みはまず周辺からだ。ほら、早く調べろ」

 こじつけっぽい気がする。そう思いながらも、アリサは目的の場所を検索した。

「ここからけっこう近いですね」
「そうか。じゃ、このまま行くか」

 ビルから出ると谷本はそのまま車へ向かう。アリサは立ち止まってビルを見上げた。不思議な少女だ。しかし、彼女が殺人事件に関わっているとは思えない。歌詞が事件と関係しているなど、やはりただの偶然なのではないだろうか。そんなことを考えながらアリサも車に乗り込んだ。

 昼間だというのに外を歩いている人は少ない。ここがオフィス街ということもあるのだろう。たまに歩いているのはスーツを着たサラリーマンだけだった。ナビモードのボードが音声で谷本に道順を伝えている。車はやがてオフィス街を抜け、静かな住宅街へと入っていった。

「アポ、取らなくてもいいんですか?」

 同じような家が並ぶ景色をぼんやり眺めながらアリサは言った。

「あー、アポね。……めんどくせえな。取っといてくれよ」
「わたしがですか。まあ、いいですけど。でも誰に取ったらいいんでしょう」
「そりゃ、代表者じゃねえか? いや、まあ、アポなんてなくても大丈夫だろ。行きゃなんとかなるもんさ」

 アリサはため息をついた。なんて楽観的なのだろう。たとえ門前払いされたとしても力ずくで事情聴取するに違いない。

「あ! 谷本さん。そこですよ」

 話しているうち、いつの間にか目的の場所についてしまった。鼓膜を震わす急ブレーキの音と同時に車体がガクンと大きく揺れた。シートベルトが肩に食い込み、アリサは顔をしかめたが谷本は何食わぬ顔で車から降りていった。

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