picture_pc_b8909229f5270f4aafc0d9c1dea1e392のコピー

白い月に歌は響く 第一章②

☽ ☽ ☽ ☽

 できた。彼女は思った。さっそく最初から歌ってみる。ここにはいつでも彼女の歌を聞く者がいる。今もドアの近くで男が彼女の歌を聞いている。歌い終わると、彼は笑顔で近づいて来た。

「いいね。また売れること間違いないよ」

 彼の名前は黒沢という。どうやら歌を商品として売っているらしい。定期的に彼は知らない人から送られてきた大量の手紙を持ってくる。最初は読んでいたが、気持ち悪くてやめた。手紙も商品も、彼女にとってはどうでもよかった。

「この曲のタイトルはこっちでつけてもいいかな?」

 黒いスーツの内ポケットから手帳を取り出しながら黒沢は言った。彼女は頷く。タイトルなんてどうでもいい。
 黒沢は手帳に何か書き込みながらしきりに何度も頷いている。頷くのが癖らしいと、最近になってわかってきた。

 彼女は窓の外に目を向ける。透き通るような、青い空。空の向こうにはまだ白い月が浮いている。彼女はもう一度歌いながら月を眺めた。

 あの夜の月が頭をよぎる。

 あの男はどうなったんだろう。なぜわたしはあそこにいたのだろう。

 ――なぜ。

 いくら考えても答えは見つからない。歌い終わると、黒沢はなぜか礼を言って再び手帳にペンを走らせた。

「いやー、いいね。うん、すごくいいよ。で、ジャケットなんだけど、希望とかあるかな?」

 彼女はゆっくり首を横に振った。

「そっか。じゃあそれもこっちで決めるね。次の歌ができたらすぐ呼んでよ。とんでくるから」

 黒沢はそう言い残すと足早に部屋から出て行った。

 別に呼ばなくても来るくせに。

 彼女はドアを見ながら思った。実際、今まで一度も彼女から黒沢を呼んだことはない。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。彼女にとってすべては歌だけ。音楽ではなく歌そのもの。彼女は窓の外を眺めながら再び歌い始めた。今日は久しぶりによく眠れそうだ。そう思いながら、彼女は月に歌いかけた。


☾ ☾ ☾ ☾


 困った。どうしよう。

 アリサは谷本の運転する車の助手席で、そればかり考えていた。正直言ってアリサは刑事になりたかったわけではない。それゆえ、まさか自分がこんなことをする羽目になるとは思いもしなかったのだ。ひたすらどうしたらいいのか考えていると谷本が「おい」と声をかけてきた。

「後ろのファイル、ちゃんと読んどけ。まあ、たいしたことは書いてないが」
「あ、あの、やっぱり他の人と交代した方が」
「今さら何を。言っただろ? いつ駆り出されるかわからないってな」
「谷本さん、もしかして知ってたんですか?」

 アリサは谷本の顔を見た。ハンドルを操りながら彼はニヤリと笑う。

「ああ、まあな。俺だってお前みたいな捜査の基本も知らねえ女と組みたくなかったさ。でも、上からの命令には逆らえないだろ?」
「谷本さん。その『お前みたいな女』って差別的発言ですよ」

 アリサは後ろの席からファイルを取りながら言った。

「あ? ああ、そうか。お前もあれか。『差別的、セクハラ的発言、行為をした者には法罰を与えるべき』とか思ってるタイプか」
「違います。けど、差別やセクハラ発言する人に賛成はできませんね」
「そうかよ。今生きてる人間は、その差別とセクハラで生き延びてきたようなもんだがな」

 アリサは谷本を無視してファイルを読み始めた。
 近年、社会は急激に変わり始めた。それまでもセクハラや差別は問題視されてきたが、それ以上に厳しく管理すべきだという声が多くなったのだ。
 もうすぐ、この二つに関する法律が正式に施行されるらしい。他にも学校、教育、ゲーム、テレビ番組、家庭環境、住民管理など、すべてにおいて見直されるという話だ。

 途方もない大改革。

 今までにも何度か案が出たことはあったようだが、主に資金面の問題で行われることはなかった。なぜ急にそれが可能になったのかというと、他国との共同改革になったためである。足りない資金は全てアメリカ及びその同盟国が出すのだそうだ。以前から日本はアメリカの裏支配下にあると噂されていたが、この改革がそれを証明している。そのことをマスコミは激しく書き立てたが、国民の反応は薄かった。国民にとっては自分たちの暮らしが守られてさえいればそれでいいのである。
 実際、アリサにとってもどうでもいいことだった。第二次世界大戦後から今まで、日本は他国に依存してきたのだ。今さら何が変わったわけでもない。とはいえ、改革が実現されるまでにはまだ長い年月がかかるのだろう。

「ところで、今からどこへ行くんですか?」

 アリサはファイルを読みながら尋ねた。運転が荒いのか、よく揺れる。気分が悪くなってきた。

「どこって、事件が起きたと思われる現場だよ。お前は初めてだから一から教えてやれって言われてな。面倒だが、しょうがねえ」
「……谷本さんって意外とよく話す人だったんですね」

 頭が痛くなってきたのでファイルを閉じ、アリサはそれを後ろの席に戻した。

「それは差別的発言に入るんじゃないのか?」
「……すみません」
「歳をとると話したくなるもんなんだよ」

 そんなものだろうかと思いながら、アリサの頭の中では「これからどうしよう」という言葉がまだグルグルと回っていた。


 谷本の言う『事件が起きたと思われる現場』に着くと、アリサは事件のファイルを手に車を降りた。谷本はすでに先へ行ってしまっている。
 周りは木々が生い茂り、近くには小さな神社があった。管理する者がいないのか、元は赤かったであろう鳥居は汚く黒ずんでいる。少し歩くと急に木々が少なくなり、断崖に出た。まるで荒い波に岩をえぐられたような場所だ。

「ここから被害者は落ちたらしい」

 谷本は振り返った。

「何で分かったんですか?」

 手元の資料によると、発見された海岸はここからおよそ七キロほど離れている。

「まあ、色々調べたんだけどな。あの浜へ死体が流れつくには、ここの下の潮流だけしかないらしいんだ。この辺は妙な地形だから潮の流れも変わってる。他の場所から落ちてもあの浜へは行かないそうだ」
「でも、もしかしたら別の場所で殺してから浜へ運んだのかも」
「いや。ほら見てみろ、あそこ」

 谷本は崖の下を覗き込んだ。アリサもそれに続く。崖は予想以上に高さがあり、思わず足が竦んでしまう。それでも懸命に首を伸ばして覗き込むと、崖の中腹辺りに大きな岩が出っ張っていた。その下では波が激しく打ちつけられて砕けている。

「どうもあそこで一回バウンドしたみたいでな。被害者の血がついてた」
「血が……。ここ、降りて調べたんですか?」
「みたいだな」
「すごいですね……」
「まあ、こういう危険な場所が好きな奴が鑑識にいたんだろ。ほら、岩登りが趣味とかいう奴、たまにいるし。俺はいくら特別手当が出たとしてもやらねえけどな」

 アリサは谷本の言葉に深々と頷いた。

「よし。じゃ、次行くか」

 谷本は他に説明を加えることもなく、さっさと車へと戻って行く。

「え? あの、男が落ちたときの状況とか、そういうのは?」
「ファイルに書いてあるだろ」

 アリサはファイルを開いた。

被害者は崖を背にして座り、後ずさりしながら落ちたと思われる

「……座ったままですか」
「ああ、そこ。お前が立ってるとこの近く、草が潰れてるだろ?」

 見ると確かに草が不自然に潰れている。

「あと、致命傷じゃないが被害者の右肩に銃創があってな。たぶん、ここで何者かに脅されて落とされたんだろう」
「だったら、ここに犯人の手掛かりもあるんじゃないですか? 足跡とか、あと銃弾とか薬きょうとか」

 しかし、ファイルには何も書かれていない。

「なかったんだよ。銃弾は貫通、薬きょうも見当たらない。足跡もない。タイヤ跡は、いくつも重なっててよくわからん」
「でもこの辺りはあまり人の来ない所なんですよね」

 谷本は頷く。

「じゃあ車が来たりしたら、誰か覚えてるんじゃないですか?」
「お前な、ここに来るまでに民家はあったか? 人はいたか?」

 そういえば家は一軒もなかった。廃屋ならあった気がするが、人の気配は皆無だ。

「……いませんでしたね」
「昔は村があったそうだがな。最近、政府が国民の住居を決めてるだろ。なんだっけか、住宅地管理システム? よくわかんねえけど」
「お年寄りばかりが住んでいる地域を指定して、半強制的に政府が用意した新住宅地に引っ越しさせるんですよね。新住宅には一人暮らしのお年寄りが家の中で倒れたり、動けなくなったりした場合、すぐに救急隊が駆けつけるシステムがついてるそうです」

 谷本は顔をしかめて腕を組んだ。

「そういうのって年寄りにはいい迷惑だろうにな。人は生まれた土地で死にたいってのが本望だろ?」
「さあ。人それぞれじゃないんですか。孤独死するのも嫌だと思いますけど」
「……お前、冷めてるな」

 谷本は首を振りながらため息をついた。

「けど、すごいですね。何も手がかりを残さないなんて」
「バカか、お前は。なに犯人に感心してんだ。おかげでこっちはお手上げなんだぞ」
「ああ、そうですよね。すみません」

 谷本の後について歩きながらアリサは足元を見た。潰されてしまった草たちはたくましく、再び起き上がりかけていた。

「谷本さん。あの神社では何も見つからなかったんですか?」

 車まで戻ると、アリサはあの黒ずんだ鳥居に目をやった。

「ああ、何もなかった。人が出入りした形跡は何もない。事件には関係ないみたいだな。ほれ、さっさと行くぞ」

 谷本は言うとさっさと車に乗り込んだ。

「次はどこに?」

 聞きながら助手席で靴や服に草や土がついてないか念入りにチェックする。車に乗り込む前に叩いたものの、やはり少し汚れてしまっている。アリサは鞄から除菌ティッシュを取り出した。

「……お前、何してんだ?」

 谷本は質問には答えず、横目でアリサの行動をチラチラと気にしている。

「何って。土とか草とかついてたら嫌じゃないですか」
「嫌って……。別にウィルスとかじゃないんだからよ」
「何言ってるんですか。ウィルスだらけですよ。あんな場所にずっといたら、何からどんなウィルスを移されるか分かったもんじゃないです。森だけじゃないですよ。外は汚染されてるんですから」
「……はあ、そんなもんかねぇ。俺のガキの頃はまだみんな公園とかで遊んでたけどな」

 昔を思い出しているのか谷本は遠い目をして懐かしそうに言った。

「信じられませんね。わたしが小さい頃は用事がない限り、家から出ることはなかったですよ」
「そうか。俺がガキの頃も子供が外で遊ばないと言われてたもんだが……。まったく、世の中変わったな」

 なぜか寂しそうに彼は呟いた。

「……それで、どこ行くんですか」

 どう返事をしたらいいのか分からなかったアリサは質問を繰り返す。すると谷本は無表情に「死体発見現場」と答えた。

前話

次話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?