見出し画像

サマータイムメモリー(全文公開)

「おい、大丈夫か」
 後ろを振り向くと、おさげを二つ結んだ頭がこくりと頷いた。その顔はこちらを見ていない。ただ懸命に足元へと視線を落としている。山道に足を取られないよう必死なのだろうか。それとも不本意ながら連れて来られたことに腹を立てているのか。おそらく後者だろう。悟は心の中でため息をついた。

 鬱蒼とした森の中で響く蝉の声。その向こうから涼しげな川のせせらぎが聞こえた。
「美沙、あそこから川に出られるんだ。ちょっと休んでいこう」
 茂みの中を通る獣道を指差して悟は声をかけたが、やはり彼女は頷くだけだった。足場の悪い急な坂道、美沙の身体を支えてやりながら下っていくと、緩やかな流れの小川に出た。川幅は狭く、水深もわずか子供の腰くらいまでしかない。透き通った水の中を涼しげに泳ぐ小さな魚たち。岸辺に生えた草はその葉先を水面に垂らし、水浴びを楽しんでいるかのように揺れていた。子供のころに戻ったような錯覚を覚えるほど、その光景は昔と変わりなかった。
「父さんな、子供の頃はよくここで遊んでたんだ」
 悟は言いながら草の上に腰を下ろした。そっと水に手を触れてみる。山水特有の冷たさが心地よい。
「気持ちいいぞ」
 すると美沙は隣に屈み込んで、その小さな手を伸ばした。つめたい、と微かな声が聞こえる。その様子に悟はひそかに安堵の息を吐いた。

 六年間別居していた妻が事故で他界し、美沙が我が家にやってきて二ヶ月。十歳になった一人娘は当然ながら記憶にある姿よりも成長し、彼女の記憶の中の父はすっかり消えてしまっていた。悟自身、娘にどう接すればいいのかわからず、ただオロオロと日々を過ごすばかり。あの電話があるまでは。

「美沙、新しい学校はどうだ?」
 手のひらで水を軽く揺らしながら尋ねる。答えはない。
「ごめんな。できれば転校なんてさせたくなかったんだけど、父さんの仕事の都合で――」
 言いかけて口をつぐむ。そんなことは身勝手な大人の都合だ。悟は決まり悪く咳払いをすると「学校、嫌いか?」と美沙の顔を覗きこんだ。しかし、彼女は答えない。
「……まあ、いいや。せっかくおじいちゃんの家に来たんだ。しっかり遊んで帰ろうな」
 悟はそう言うと大きく手を動かして水しぶきを飛ばした。滴が美沙の顔にかかり、彼女は迷惑そうに顔をしかめる。笑わせようと思ったのだが、どうやら失敗してしまったらしい。
「あ! 誰だよ、あんたたち」
 突然、背後で少年の声が響いた。振り返った先には十歳くらいの少年の姿。小麦色の健康的な肌に活発そうな顔つきをした彼は、いかにも田舎の子供といった風情だ。

「ここは俺の場所なんだぞ。勝手に入るなよ。不法侵入だ」
 彼はそう言いながら挑むように美沙と悟を睨んできた。
「あ、そうなのか。ごめんな。この場所、昔よく遊んだから懐かしくて」
「昔……? おじさん、この辺に住んでたの?」
「ああ。子供の頃にね。この山も小学生の頃よく来てた」
 しかし、なぜか中学に上がると同時に山には来なくなったなと心の中で思う。
「ふうん。そっちの子はおじさんの娘?」
「そう。美沙っていうんだ。君は?」
「リョウタ」
 彼はそう名乗ると「山、案内してやるよ」と言った。
「俺、ちょうどヒマだし。すっげえいい景色の場所があるんだ。連れてってやるよ。この山、俺の庭だし」
 自信満々な笑みを浮かべた彼に、美沙は困ったような表情でこちらを見上げてきた。悟は小さく頷いて微笑む。
「連れて行ってもらおう。二人より三人の方が賑やかだしな。父さんもあまり道を覚えてないから助かる」
 するとリョウタは嬉しそうに頷いた。

「リョウタくんは一人で遊んでるのか?」
 山道へ戻った悟は木の枝を振り回しながら歩くリョウタに尋ねる。
「まあな。たまに誰かと遊んだりするけど、最近あんまり山遊びする奴いなくなってさ」
 そう言った彼の横顔はどこか寂しそうだ。
「最近の子は、あまり出たがらないのかな」
「さあ。俺はわかんないけど。あ、でも美沙は外で遊んでるじゃん」
 思いがけず呼び捨てにされたことに驚いたのだろう。美沙は目を丸くしてリョウタを見返した。そんな彼女の様子に構わず彼は続ける。
「美沙はこの辺の人間じゃないよな? 都会から来たのか?」
 美沙は目を丸くしたまま頷いた。
「山、楽しいか?」
「別に」
 ふうん、とリョウタは少し残念そうに頷いていた。

 山道は木々で遮られているせいか風がなく、湿気が容赦なく汗を誘う。さきほど川で得た爽快感もすっかり消え失せてしまった。
「田舎はまだ涼しいかと思ったんだけど、やっぱ暑いな」
 思わず声をあげるとリョウタが肩をすくめた。
「時代の流れってやつだな。最近はどこへ行ったって暑いんだ」
 その口調が妙に大人びていて可笑しい。そのとき、ガサッと茂みが大きく揺れた。思わず立ち止まって美沙を引き寄せる。リョウタが木の棒で茂みを突くと、サッと何かが飛び出して三人の足下を縫うように走り去っていった。
「なんだ、イタチだ」
「イタチ?」
 美沙が不思議そうな声をあげながらイタチが消えて行った方を見つめている。
「イタチってのは、なんかこう、長細くて茶色い毛の、ネズミみたいなやつだ」
 そう説明してやると、美沙は考えるように眉を寄せてしまった。
「……うん、悪かった。父さん説明下手だな。おじいちゃんの家に帰ったら図鑑で調べよう」
「うん、わかった」
 素直に頷いて美沙は笑みを浮かべる。それを見て、悟は思わずぽかんと口をあけてしまった。情けない話、引き取ってから初めて見た娘の笑顔だったのだ。
「おじさん、どうした? 変な顔して」
「ああ、いや、なんでもない。行こうか」
 リョウタは頷くと、思い出したようにパッと表情を変えた。
「そうだ! 美沙、ちょっとこっち来いよ。いいもの見せてやる」
 そう言うと彼は美沙の手を掴んでズンズン歩いていってしまう。

 一本道だと思っていた道も、けもの道を合わせてしまえばそうとも言い切れない。『俺の庭』と言うだけのことはあって、リョウタはすべての道を熟知しているようだった。茂った草や垂れ落ちた木の枝を払いながらなんとかついていくと突然視界がひらけた。そして目の前の光景にほうっと息を呑む。

 そこに広がっていたのは緑の絨毯が敷き詰められたような草原。いや、草原と呼ぶには大袈裟かもしれない。楕円形に広がったその範囲はごく狭い。だが、草原と呼ばずにはいられない草の絨毯。どこか懐かしい感じがする。

「すごーい! きれい!」
 興奮した高い声に悟は我に返った。リョウタと美沙が楽しそうに走り回っている。ザッと強い風が吹き、緑がきれいに揺れる。その中で美沙の笑い声が響いた。どうやらリョウタが転んでしまったらしい。起き上がったリョウタが小さな花を美沙に渡してやると、彼女は嬉しそうにそれを持って戻ってきた。
「お父さん、見て! お花もらった」
 小さな手の平には、名も知らない紫のかわいらしい花。悟はそれを美沙のおさげにつけてやる。
「お、いいね。似合ってるじゃん」
 リョウタの言葉に美沙は恥ずかしそうに微笑んだ。
「さっきコケてただろ。怪我は?」
「大丈夫だって。それより、いいだろ。ここ」
 リョウタは自慢げに腕を広げた。
「ああ。こんな場所があるなんて知らなかったな」
「だろうね。ここは誰にも教えてないんだ。美沙とおじさんだけに特別教えてやったんだからな」
「どうして教えてくれたの?」
 美沙が首を傾げた。するとリョウタは息を吐くようにして笑う。
「そりゃ、久しぶりに山に帰ってきてくれたからだよ」
「お父さんが?」
「二人がね」
 リョウタはニヤリと笑う。美沙が問うように悟を見上げたが、悟も首を傾げるしかなかった。

 再び道へと戻り、三人は並んで歩き続ける。途中、リョウタが立ち止まっては虫や蝉を素手で捕まえるという凄技を見せ、美沙は声をあげて喜んだ。といっても、その捕まえた獲物に近づこうとはしない。
「お前にやるってば。ほら」
 リョウタが言いながら美沙を追いかけるが、彼女は悲鳴を上げて逃げ回るのだった。
「なんで逃げるんだよ。かわいいのに」
 リョウタは少し頬を膨らませて右手に持ったアブラゼミに視線を向けた。蝉は小刻みに鳴きなら羽をばたつかせている。その光景が自分の中の記憶と重なり、悟は微笑んだ。
「美沙はあまり蝉や虫と接することがなかったんだ。いきなり持つのはちょっとハードル高いな」
 するとリョウタはふうん、と口を尖らせて美沙を見やる。彼女は少し離れた場所でこちらの様子を窺っていた。
「わかった」
 リョウタは納得した様子で蝉を放してやった。ジジッと声をあげてアブラゼミはどこかへ飛んでいく。

「そういえばさ、なんで今の時期に帰ってきたの?」
 バシバシと木の枝で茂みを叩きながらリョウタは聞いた。
「まだ夏休みでもないし、今日は平日だろ? 美沙、学校あるんじゃないの」
 その瞬間、美沙の表情が沈んでしまう。リョウタはちらりと彼女を見ると、大きく木の枝を振り下ろした。バシッと軽く鋭い音が響き、美沙は肩を震わせる。
「リョウタこそ、学校どうしたんだ?」
 今日が平日だというのなら、彼もまた学校に行っていなければおかしい。すると彼は「俺は学校行けないもん」と笑った。
 なにか家庭の事情でもあるのだろうか。そう思う悟の脳裏にふと昔の記憶が蘇る。たしか、子供の頃にもそんな言葉を聞いたような気がする。おぼろげに浮かぶ記憶の中、誰がそう言っていただろうか。

「美沙はなんで行ってないんだ?」
 リョウタの声に悟は思考を止めた。美沙が困ったような、怯えたような複雑な表情をこちらに向けている。だが、悟はあえて無言を貫いて道の先へと視線を向けた。
「学校、嫌いなのか?」
 なおも続くリョウタの質問に美沙は俯きながら小さく首を横に振る。
「じゃあ、なんで行ってないんだ?」
「行ってるよ。今日は休んだだけだもん」
「ふうん。学校、楽しい?」
「別に」
「そうなの? 楽しそうだけどなぁ、学校」
 美沙は答えず、ただじっと足元を見つめている。その様子にリョウタは軽くため息を吐いた。
「ま、別にいいけどさ。ほら、しっかり歩け! もう少しだぞ」
 言って彼は励ますように美沙の背中を叩いた。顔を上げた美沙は彼に笑みを向けて頷いた。その様子を悟は微笑みながら見つめていた子供の頃はこうして自然と友人ができるものだ。そのきっかけを、美沙は失っていたのだろうか。

 あの日、電話で交わした担任教師との会話が蘇る。
『実は美沙ちゃん、あまりクラスに馴染めていないようで』
 仕事中にかかってきた学校からの電話。担任は言葉を選ぶようにして『休み時間も、誰かと遊ぶ様子がないもので少し心配で』と続けた。まだ転校してきたばかりだからではないか、と言うと担任は小さく唸った。
『そうかもしれません。しかし先日、授業で家族との思い出というテーマで絵を描かせたんですが、美沙ちゃんは真っ白の画用紙を提出しました。ですので――』
 家庭に問題はないのか、と担任の声は言いたげだった。家族三人でどこかへ出かけたのは、まだ美沙が言葉も知らない頃。きっと、彼女は覚えていないのだろう。そういえば一緒に暮らし始めてからろくに会話もしていない。しかし、どうコミュニケーションをとればいいのかわからない。考えた末に起こした行動がこの帰郷だった。

「おじさん、どうした? 急に黙っちゃって」
 気づくと美沙とリョウタが不思議そうに目を瞬かせてこちらを見ていた。
「ああ、いや、なんでもない。それより、まだ着かないのか? おじさん、ちょっと疲れてきたんだけどな」
 するとリョウタが声をあげて笑った。
「おじさん、体力なさ過ぎだろ。運動しろよ。もっと太るぞ」
「ちょっと待て。おじさん、太ってないぞ」
 すかさず訂正をいれると、美沙が声をあげて笑った。思わず悟は彼女の顔を凝視する。美沙が楽しそうに笑っている。
「なんだよ、美沙。お父さん、太ってないだろ? ほら」
 悟が両手を広げて胸を張ってみせると、美沙はじっとその姿を見つめて首を傾げた。
「ふつうかな」
「そうそう。普通だよ。俺は太ってません」
 たしなめるようにリョウタに言うと彼はニヤリと笑った。そしてふいに前方へ目を向ける。ずっと続いていた山道が眩しい空へと続いている。
「あそこがゴールだ。美沙、競走しようぜ。よーい、どん!」
 言うが早いかリョウタが走り出す。その後に続いて美沙が嬉しそうに駆け出し、見る間に二人の背中が眩しい光の中へと消えていく。
「よっしゃ! 俺の勝ち!」
「ずるいよ、リョウタくん」
 楽しそうな二人の声を聞きながら、悟はのんびりと二人の後に続いた。

 たどり着いた場所は山の中腹、小さな社が建てられた場所だった。わずかに拓けたその場所で子供の頃よく遊んでいたことを思い出す。あの頃とほとんど何も変わっていない。唯一変わっていたことは社が新しく建て直され、真新しい木の色合いをしていることぐらいだ。急な斜面の向こうには悟が育った村が見える。

 今も昔も変わりなく広がる田園地帯を見つめていると美沙の声がした。彼女は一本の大きな老木をリョウタと並んで見上げていた。
「懐かしいな、この木」
 言いながら二人の後ろに立つ。子供の頃から当たり前のようにあった大木だ。樹齢数百年ほどあるのではないだろうか。その太い幹には注連縄がされてあった。

「お父さん、なんていう木なの?」
「んー、なんだろうな。お父さん、木には詳しくないんだよ。でもたしか名前があったな」
「名前?」
「うん。この木に宿る神様の名前だったかな」
「なんていうの?」
 なんという名だっただろうか。毎日のようにこの場所で遊び、毎日のように木の名を呼んでいたような気がする。まるで友人かのように。
「忘れたのか?」
 リョウタは言って寂しそうな表情を浮かべる。怪訝に思っていると、彼は「ま、いいや」と笑った。
「それより二人とも、今度はいつ来るんだ?」
「んー、そうだな。今度はお盆休みに来ようと思うんだけど、どうかな、美沙?」
 すると美沙は恥ずかしそうにリョウタを見た。
「また来たら、リョウタ君に会える?」
「ああ。俺はいつでもこの山にいるから」
「じゃあ、来る」
 美沙が嬉しそうに頷くのを見てリョウタは人差し指を立てた。
「じゃあ、勝負しようぜ」
「勝負?」
「次来るときまでに、どっちが友達いっぱい作れるか勝負。俺は学校行かないけど、ここで頑張って友達を作る。だから美沙も学校で頑張って友達作れよ。そんで、何人友達の名前が言えるか勝負だ」
 リョウタはそう言って人差し指を美沙に突きつけた。美沙は突きつけられた指をじっと見つめて考えていたが、やがて笑顔で頷いた。
「じゃあ、最初の友達はリョウタ君だね」
 リョウタは少し顎を上げて得意気に笑うと、美沙に向けていた指をもう一本増やして自分の顔の横につけた。
「じゃあ、今のところ俺がリードだな。俺の友達は美沙とおじさんの二人」
「えー、ずるいよ」
 頬を膨らます美沙に、リョウタは声を上げて笑った。そしてふと思い出したように神木の幹に手をあて、その根元に屈みこむ。
「そういえばさ、ここに何か埋まってるみたいなんだよ。ずいぶん前から思ってたんだけど、一人だと掘り返すのも面倒でさ」
 彼はそう言って根元の土を軽く手で掘り返す。そのとき、唐突に悟の記憶が蘇った。幼い頃の自分とリョウタの姿が重なる。自分も子供の頃、この場所に何かを埋めなかっただろうか。何かを……。

「――タイムカプセル」

 呟きながら悟は木の根元を両手で掘り返し始めた。それを見た美沙も小さな手で土を掘り返していく。

 土は軟らかく掘りやすかったが、いくら掘れども何かが出てくる気配はない。もう二十年以上昔のことだ。すでに誰かが掘り返してしまっているかもしれない。そんなことを思い始めた頃、カツンと指に固い物が当たった。思わず悟と美沙は手を止めて顔を見合わせる。埋まっていたのはビニール袋に入れられ、厳重にテープを巻かれたクッキーの缶だった。悟はビニールを力任せに剥ぎ取って缶を地面に置く。
「間違いない……」
 昔、自分が埋めたタイムカプセルだ。大人になったら必ず掘り出そう。そう約束した相手は誰だっただろうか。考えながら、別の疑問が頭をよぎる。
「なあ、なんでここに何か埋まってるってわかったんだ?」
 そう言って振り返った先に、リョウタの姿はなかった。彼が立っていた場所に、夏の風が吹きぬけていく。不思議に思いながら古びたクッキーの缶へ視線を戻した。

「ねえ、開けてみてよ」
 美沙が何かを期待した目で缶を見つめている。妙な緊張感を覚えながらそっと蓋を開けた悟は、その中身を見て自然と笑みを浮かべていた。野球のボール、ミニカー、ゲームソフト。懐かしい品々を一つ一つ缶から取り出していく。その中に一通の封筒があった。
「なにそれ」
「んー、なんだったかな」
 言いながら封筒の中身を取り出す。それは一枚の写真だった。子供の頃の悟と友人たち。真ん中に写る幼い悟は、満面の笑みでピースをしている。

「これ、お父さん?」
 写真を見せてやると美沙は目を丸くした。
「お父さんと友達だ。後ろに写ってるのはこの木だな」
 トントンと悟は神木の幹を叩く。そして何気なく写真を裏返して眉を寄せた。そこには薄い文字で『リョウタヤノキの前で』と書かれてあったのだ。
「リョウタヤノキ……」
 それがこの木の名前。だが、長いから略して呼ぶようになったのだ。そう、たしか……。
 遠い記憶を探りながら悟は木を見上げる。緑葉が風に揺れて鳴っている。その隙間から差し込む夏の日差しが眩しかった。
「お父さん、これなに?」
 缶の中を探っていた美沙がふいに声をあげた。見ると彼女の手にはビニールでぐるぐる巻きにされた短い筒が握られていた。それに覚えはない。
「なんだろうな」
 悟は言いながらビニールを破りとっていく。中から現れたのはスナック菓子の細長い筒箱だった。しっかりと閉じられた蓋を剥ぎ取ると中から一枚の画用紙が出てきた。それは色鉛筆で描かれた風景画。悟は思わず息を呑んだ。

 淡い緑の草原で風に揺れる薄いピンクの花。その花に駆け寄る幼い少女と母親。それを見守る父親の姿。薄れていた記憶が鮮明に蘇る。とても穏やかな春の日。すっかり忘れ去っていた、幸せな記憶。

「ねえ、なにが描いてあるの?」
 絵を見ようと懸命に背伸びをする美沙に気づき、悟はそれを渡してやる。
「美沙、これな、お母さんが描いた絵だ」
 美沙の目が大きく見開かれる。妻は美大生だった。どこかへ出掛けるたび、絵を描いていたことを思い出す。美沙が産まれてから一度だけ、家族で実家に帰ってきたことがある。覚えてはいないが、そのときタイムカプセルの話をしたのかもしれない。あるいは悟の両親から聞いたのか。それを聞いて妻は、いつの日か悟と美沙を驚かそうと思ってこれを描いたに違いない。
「これ、美沙とお母さんとお父さんだぞ。場所は、たしかこの近くの高原だったかな」
「これが、わたしたち?」
「ああ。家族の思い出だな」
 妻が残した、たった一つの思い出。美沙は瞬きもせず、じっとその絵を見つめていた。

「よし、帰るか」
 パンッと膝を叩いて悟は立ち上がった。美沙が顔を上げて辺りを見回す。
「リョウタくんは?」
「ああ、彼はもう帰っちゃったよ」
 すると残念そうに美沙は手に持った絵に視線を落とした。
「これ、見せたかったのになぁ」
「また今度会ったときに見せてあげればいいじゃないか。ああ、そうだ。帰ったら今日のことを絵に描いてみたらどうだ? きっと美沙も絵が上手だろう」
 悟の言葉に美沙は恥ずかしそうにして「そうかな」と笑った。悟は大きく頷く。
「家に帰っていっぱい描くといい。それをリョウタくんに見せてあげるんだ。新しくできた友達の絵とかさ」
 何気なく言った言葉だったが、美沙は妙に真剣な表情で頷いた。
「そうだね。絵に描いてリョウタくんに見せたら、友達が何人できたかってわかりやすいよね」
 少し考えて、彼女がリョウタとの勝負のことを言っているのだと理解して悟は笑った。
「そうだな。じゃあ、リョウタも絵を描いて美沙に見せてやってくれよ」
 言いながら神木の太い幹をポンポンと叩く。それを美沙は不思議そうに見ていた。悟は首を振って美沙の肩に手を置く。
「よし、どっちが早く山を降りられるか競争しよう。いくぞ? よーい、どん!」
 言い出すが早いか悟は走り出す。すぐに美沙が楽しそうに追いついてきた。
 静かな山に夏の風が吹き抜ける。大きな古い神木が、二人を見送るように枝を揺らした。

(了)

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?