picture_pc_b8909229f5270f4aafc0d9c1dea1e392のコピー

白い月に歌は響く 第三章①

 翌日、出勤しようと寮を出たアリサは路肩に停められた旧型の車を見て足を止めた。見覚えがある。

「よう」

 運転席の窓が開き谷本が顔を覗かせる。アリサは眉を寄せた。

「なんですか? こんな朝っぱらから」
「ストーカーじゃないから安心しろ。見せたいものがあるんだ。乗れ」
「……今じゃなきゃいけないんですか?」
「そうだ。署じゃちょっとまずい」

 仕方なく、アリサは助手席に乗り込んだ。谷本は車を動かし、寮から少し離れた場所にあるコインパーキングに停めた。そして真新しいボードを開いてデータを呼び出す。

「これだ」

 言いながら彼が手渡してきたボードには『人工胎児実験』と書かれたレポートが表示されていた。

「……これは?」
「被害者が取材してたやつさ。多分な」
「え、じゃあ、これが警察の秘密ってことですか?」
「おう、だろうな。確証はないが、確率は高い。俺もやりゃできるんだ。見てみろよ」

 得意げに笑った谷本に、アリサはボードを突き返した。

「何だよ? 見ろって」
「いえ、結構です。興味ないですから」
「うそつけ。気にならないわけないだろ」
「好奇心のままに行動すると、ろくなことがないと教わりましたから。それにこのレポート、タイトル見るだけでも明らかに違法実験じゃないですか。もしこの実験に警察が関わっていたとしたら、わたしたちは知らない方がいいに決まってます」

 すると、谷本は呆れたような表情を浮かべた。

「お前なぁ、人間は好奇心あってこそだぞ? そのおかげで今の生活がある」
「それとこれとは話は別です」
「そうか。しょうがねえ。じゃあ、俺一人で調べるか」
「ええ。そうしてください」

 アリサはきっぱり言い放つと車から降りて歩き始めた。谷本が何をしたいのか全く理解できない。ただでさえ森田から煙たがられているというのに、あんなことに手を出したらどうなるか予想はつくだろう。下手をすれば解雇処分になりかねない。

 ――大人しく指示に従っていればいいのに。

 深くため息をついたアリサの横を、旧型の車が排気ガスをまき散らしながら走り抜けていった。

 署に到着して廊下を歩いていると、凶悪犯罪課の部屋から怒鳴り声が響いてきた。何事かと覗いてみると、谷本が森田に怒鳴っているところだった。

「一体どういうことですか! まだ事件発生から二週間も経ってない。いくらなんでも早過ぎるでしょう!」

 バンッとデスクを叩く音が響き、アリサは思わず肩を震わせた。その姿に気づいたらしい森田が「あー、島本。お前にもメールを送ったんだが読んだか?」と不機嫌そうな声を投げてくる。

「メールですか……?」

 慌ててボードを開くと、緊急メールが届いている。それは捜査本部の解散が決定したという内容だった。まだ本部が作られてから一週間ほどしか経っていない。確かに早過ぎる。

「島本、お前も何か意見があるのか?」

 森田が眉間に皺を寄せた。

「いえ。ありません」

 谷本はそんなアリサの返事にさえも食ってかかろうとしたが、思いとどまったのか、再び森田に向き直った。

「なんでこんなに早く解散するんですか! まだ何も分かってない!」

 谷本は目を剥いて声を張り上げる。対する森田は表情こそ厳しいが、口調は冷静だ。

「上からの命令だ。詳しいことは知らなくていい」
「上からの? もしかして、被害者が取材してた件のことか」

その途端、森田の目つきが一気に鋭くなった。彼は谷本を睨みつけ。低い声で「谷本、お前はしばらく謹慎処分とする」と言った。

「はあ? なんでいきなり謹慎処分なんだ!」

 再び部屋に響く、デスクを叩きつける音。

「指示違反だ」
「指示違反だと? なんだそりゃ。上司に意見しただけで指示違反か!」

 森田はゆっくり首を左右に振った。

「今回だけじゃない。今までの度重なる指示違反に周りの者はひどく迷惑してるんだ。しばらく仕事から離れて頭を冷やすといい。なんならこれを機に自主退職してくれてもいいぞ。こちらとしては大歓迎だ。それからわかっていると思うが、謹慎中の捜査は一切禁止だ。それを破れば自主退職するまでもなくお前のクビが飛ぶと思え。以上だ」

 谷本は周りに目を向ける。しかし誰ひとり谷本の弁護をしようとする者はいない。今井はオロオロした様子で谷本を見つめている。アリサも、動けなかった。

 彼は森田の机を思い切り蹴り飛ばすと、周りを睨みつけながら乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。気まずい空気が部屋を漂う。それを打ち消すように、森田がアリサを呼んだ。

「お前も谷本と行け」
「え……。なぜですか」
「あいつは信用できんからな。お前は監視役だ。谷本が今回の件を調べるような様子を見せたら、すぐに知らせろ」
「監視って一体何をすれば……?」
「常に一緒に行動しろ」

 ――冗談じゃない。

 心の中ではそう思うが口には出せない。上司の指示には従わなければならない。

「しかし、朝礼には出なければいけませんし」

 何とか断れないかとアリサは最後の抵抗を口にする。だが、森田は軽く片手を振った。

「朝礼は免除だ。お前の谷本の監視に集中しろ」
「……勤務時間だけですよね?」

 森田はしばらく考えてから頷いた。

「仕方ないだろう。残業は基本的に禁止だからな。行ってこい」

 アリサは力無く頷き、谷本の後を追った。

 谷本は入口の脇に立っていた。まるでアリサを待っていたかのようだ。声をかけると、彼は「来たか」と口角を上げた。

「課長のことだから誰かを俺の監視につけるだろうと思ってたさ。まあ、あのメンバーの中でそれを指示されるのはお前ぐらいだろうともな」

 なんだか少し腹の立つ言い方だが、アリサはとりあえず「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「お前も災難だな。行くぞ」
「まったくです」

 小さく呟きながら谷本の車に乗り込む。

「さて。さっきはえらくムカついて全員ぶん殴ってやろうかとも思ったが、考えようによってはラッキーだ。これであの件について思う存分調べられる」
「……谷本さん。わたしがいる意味わかってますか?」
「わかってるよ。俺がなんか調べてるとこ見たら報告してクビにすんだろ?」
「だったら――」
「お前が見なきゃいいんだよ。お前は今から俺がすることを何も見ないし、聞かない」
「そんな無茶な……」
「そういえばお前、音楽とか聞くのか?」
「何ですか、いきなり」
「いやな、こないだボードの使い方勉強してる時に、間違ってうっかり曲を買っちまったみたいなんだ。試聴してたらちょっと気になるところがあってな、もう一回聞こうとしたら精算画面になって。で、なんかその曲が送られてきてるっぽいんだが、どうやったら聞けるのかわからん。ちょっと見てくれるか」

 谷本は赤信号で車を停めるとボードを開いてアリサに渡した。アリサはため息をつきながらボードを操作する。確かに音楽データが届いているようだ。

「な、きてるだろ? ちょっと再生してみてくれ。そんでその曲をよく聞いてみてくれ」

 アリサは言われた通り曲を再生させた。聞き覚えのあるイントロが流れてくる。それは、昨日アリサにも届いたあの曲だった。

「この曲知ってますよ。人気あるみたいですね、この歌手の曲。でも、何が気になるんですか?」
「いいから黙って聞けって」

 歌が始まった。言われるまま、しばらくその歌詞を聞いてみる。そのうちアリサも妙な感じを覚えたが、その原因がよくわからない。

「この曲の歌詞出せるか?」

 そうだ。聞き取らなくても歌詞は出せる。アリサが素早くキーを叩くとモニタに歌詞が表示された。

「……あっ!」

 思わずアリサは声をあげた。その歌詞の一部に、あの事件の内容と酷似している部分があるのだ。

「よし。見たな? 本部が解散した後、事件の捜査をしたな」

 谷本はニヤリと笑った。

「これで俺とお前は共犯だ。俺のことを報告したら俺もお前のことを報告する」
「ずるいですよ。今のって詐欺です」
「まあ、いいじゃねえか。で、な? この歌って、あの事件のことだろ?」

 釈然としないままアリサはもう一度歌詞を確認した。一人の女の心情を中心に書かれた歌詞。ラブソングではなく、かといってメッセージ性があるわけでもない。淡々と、女の心情と周囲の出来事や様子が綴られている。その中心となっている女の心情を除くとキーワードは、黒い門あとずさる男波音、そして車にのって立ち去る人物。確かに事件と繋がりがあるようにも思えるが、偶然と言われればそうかもしれない。

「はっきりしませんね。これだけじゃただの偶然ってことも」
「だが何か関わりがあるかもしれん。こんなにキーワードが一致してるんだ。とにかくこの歌手に会ってみようじゃねえか」
「え。でもこの人、何もかも謎の歌手ですよ。会わせてもらえるんですか?」
「あのな、こっちは警察だぞ。拒否はできないだろ」
「……そういうの、職権濫用だと思いますけど」

 アリサは責めるように谷本を見た。

「つべこべ言うな。ほら、事務所調べてメールなり電話なりしろよ」
「メールだと残っちゃいますから電話のほうがいいですよ。繋ぎますから谷本さんが話してください。くれぐれも脅したりしないでくださいよ。通報されたらわたしまで処分されるんですからね」
「分かってるから早くしろよ」

 なんでこんなことになったのだ。心の中で泣きそうになりながらアリサは事務所の番号を調べる。谷本は通話に集中するためか、車を路肩に停めた。そしてイヤホンマイクをボードに繋ぐと「いいぞ」と頷く。アリサは通話ボタンを押してからボードを谷本へ返した。相手の音声は谷本のマイクにしか聞こえないように設定してある。余計なことは聞きたくなかったからだ。

 少しの間を置いて谷本は話し始めた。最初はできるだけ冷静に話しているようだったが、やはり相手側が承諾しないらしい。しばらくすると谷本は険しい表情を浮かべ、ついにこう言った。

「殺人事件の内密調査なんです。そちらの大事にされている謎だらけの売れっ子歌手さんが何か知ってるかもしれないんですよ。これ以上拒否するようなら公務執行妨害となりますが、いいんですか?」

 アリサは額に手をあてた。こんなハッタリが通じるわけない。そう思ったが、意外にも相手には通じたらしい。会う日取りを決め始めたのだ。通話を終えた谷本は、嬉しそうに笑ってハンドルを叩いた。

「いやー、まさか信じるとは思わなかった。この事務所の奴ら、法的なことに疎いみたいだな」
「もしくはその事務所に警察に対して後ろめたいことがあるか、ですね。いずれにしても、さっきのハッタリは署に確認とられたらすぐにわかってしまいますよ」
「大丈夫だろ。最近の奴らはめんどくさがってそんな事しねえよ」
「……だといいですけど」

 アリサはまだ通話モードになっているボードを通常モードに戻してやった。

「明日、会うことになったからな」
「……やっぱりわたしも行くんですか?」
「来なかったら報告する」

 アリサは無言で谷本を睨んだが彼はそれを無視して、人差し指一本でキーボードを打ち始めた。

「さて、島本。せっかく共犯になったんだから、これも見とけ」

 谷本が差し出したモニターには、朝アリサに見せようとしていた実験についてのデータが表示されていた。

「いいですよ。わたしは興味ないですから」
「見ないと報告する」
「……脅しじゃないですか。訴えますよ?」
「まあまあ、ここまできたら見ても見なくても一緒だろ?」

 見なければ引き下がりそうになかったのでアリサは仕方なく、モニターに視線を向けた。小難しい専門用語に薬品の名前らしきものがずらりと並んでいる。知っている薬品名はひとつもない。そして実験データだろう何かの数値がグラフで表示されている。実験データには日付もつけられており、それによると今から十六年ほど前に行われたものだとわかる。一通り目を通してみたものの、内容は難しくてほとんど理解できなかった。なんとかわかったことは人工受精をして一から人間を作る実験のようだということだ。その過程で様々な薬物が投与され、より優秀な人間になるように調整をするらしい。

「これはつまり、人体実験ですよね?」
「だな。その実験で産まれた人間は天才的な知能を持つんだそうだ」
「天才、ですか」
「その実験が行われていたとされる頃、日本の子供の出生率は落ち込んでてかなり危機的な状況だったんだ。そして人工的に子供を増やすためのプロジェクトが極秘に進んでたって話だ。まあ、出生率については今もたいして変わっちゃいないが」
「民間の会社で行われたんですか?」
「いや。出生率減少は先進国共通の問題だった。アイデアや資金は各国から提供され、まずは医療技術の進んだ日本が実験的に行うことになったんだ」
「それで、産まれた子供たちはどうなったんですか?」

 谷本は渋い顔をして顎を手で撫でた。

「わからん」
「……何ですか、それ」
「たった数日でそこまでわかるわけねえだろ。それにその実験してたっていう噂の施設、もうないんだ」
「へえ。倒産したんですか? というか一体どこでそんな情報を手に入れたんですか」
「お? ノッてきたな。そうだよな、やっぱ好奇心は抑えちゃいけねえ」
「何言ってるんですか。どうせ聞かなかったら報告するとか言うんでしょう?」
「まあ、そうだが……」
「話、続けてください」

 谷本はポリポリと頭を掻いた。

「ああ、えーとな。ボードの使い方を覚えてた時に、なんかの掲示板みたいなとこに辿り着いたんだ。そこ、色んな情報を交換する所だったみたいでな。まさかないだろうと思いつつ冗談半分で書き込んだんだよ。被害者が取材中だった警察の秘密について情報を求む、てな。レスはけっこうきたけど、どれもくだらねえ奴らばかりだった。で、諦めようとしたときにひとつだけまともそうな書き込みを見つけたんだ。連絡してみたら、なんと、あの被害者の学生時代のダチだっていうんだ。それで話を聞いたらいろいろと教えてくれたのさ。ついでに預かってた資料もあるってことで渡してもらった。まあ、そいつ本人はぜんぜん信じちゃいなかったよ。どうせ、このデータもあいつがでっち上げたものだと思うってな。どうやら信用のない人間だったみたいだな、被害者は」
「でもこのデータ、素人がでっち上げられるものとは思えませんけど。わたしもよくわかりませんが、かなり専門的な用語も使われているようですし」

 谷本は頷いた。

「俺もそう思って調べたら、さっきの話になった。けっこうネットって便利だよな。いろいろ噂があるんだ」
「さっき言ってた施設というのは?」
「その実験が行われてたのは都心にあるビルで、ある日突然、原因不明の爆発が起きて跡形もなく吹っ飛んだと。……都心ビルの爆発事故は確かにあった話だ」

 原因不明の爆発事故。そういえば、そんなニュースを聞いたことがある気がする。

「十二年前だ」

 アリサの様子を見て谷本が言った。

「その爆発事故は今から十二年前。まあ、この爆発に関してまともな調査はされなかったけどな」

 谷本は何か思い出すように遠い目をしている。

「だけど、その実験が行われたかどうか怪しいですよね。施設で爆発があったのが十二年前なら、産まれた子供は少なくとも十二歳以上になってるはず。けど天才児がいるなんて話は聞いたことないですし」
「そうなんだよな。もし実験が成功してても、あの爆発でみんな死んだかもしれねえし」
「で、このことを被害者が取材していたとして、結局のところ警察がどう関係してるかわかりませんね」
「だな。それをこれから調べるんだ」
「わたしは遠慮しますけど。……そういえば、あの都心ビル爆発事故って死者も数人出てましたよね」
「あー、まあな」
 歯切れの悪い答えを返して谷本は黙りこんでしまった。何か聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうか。静かな車内で、ハザードランプの音がチカチカ響いている。歩道を歩く若い母親と幼い娘の姿を、谷本はじっと見つめていた。気まずい空気を変えようとアリサは口を開いた。

「谷本さんはどうして捜査を続けたがるんですか? 本部解散の時には、いつも課長に抗議してましたし」

 谷本は車のエンジンをかけ「ちょっと移動するぞ」と言ってアクセルを踏んだ。

「今までのは、ちょっとした意地だな」
「意地、ですか」
「そうだ。昔は一つの事件に時間をかけて捜査してたんだ。地道にな。けど、最近はろくに捜査もしないまま終わってるだろ。情報収集といえば現場に行くよりモニタと睨めっこだ。現場で捜査なんて初動だけだ。それで捕まる犯人もいないことはないが、検挙率は目に見えて落ちていく。最近の連中は時効がないっていう意味を履き違えてんじゃないかとさえ思う。時効がないからってのんびり捜査していいってことじゃねえんだ。そういうのに耐えられなくなって、オレの同年代の奴らはほとんど辞めていった。だから俺はそいつらの分まで昔のやり方を通してやろうって思ったんだ。どんなに周りに迷惑でもな。ボードだって、誰が使ってやるもんかと思ってたんだが……」

 車は新住宅地を抜け、いつしか古い団地に入りこんでいた。周囲に人の姿はなく、行き交う車の数も少ない。昔は多くの人が暮らしていたのだろう場所は、新住宅地になるべく工事準備地帯となっていた。

「……あの施設の爆発事件があった頃、俺はすでに凶悪犯罪課にいたんだ。でもその事件の捜査はさせてもらえなかった。ま、管轄が違うしな。仕方ないと思ってたんだが、結局何もされないまま捜査が打ち切られたことを知った。ちょっとこれ見てくれるか? 恥ずかしいんだが」

 谷本は運転しながらポケットからラミネートされた写真を取り出してアリサに渡した。そこにはまだ若い谷本ときれいな女性、そして小学生くらいの女の子が写っていた。

「俺の家族だ」

 その写真の中で、谷本は見たことないほど穏やかに笑っている。

「幸せそうですね」
「ああ、娘はそのとき十二歳だ」

 谷本はゆっくり車を停車させた。そして無言のまま降りていく。そこは何もない空き地で、周りもただ広いばかり。建物は何もなかった。新住宅地開拓ラッシュの中、何もされないまま放置された空き地は珍しい。谷本はゆっくりとその空き地の真ん中を指差した。

「あそこが、その爆発があった施設が建ってた場所だ」
「……え」

 指された地面はコンクリートで固められている。そこに建物があった面影はない。谷本は指を右側へ向けた。

「そして、ここから百メートルほど向こうに行った所が俺の家だった」
「谷本さんの?」
「ああ」

 谷本は頷きながら歩き始めた。まっすぐ、地面を踏みしめるように彼は歩いていく。アリサは無言のままその後に続いた。

「ここにな、三人で住んでたんだ」

 谷本は言って立ち止まると寂しそうに土の地面を見つめる。アリサもそこへ視線を落とす。雑草や名も知らない小さな花が生えている中に、瓶に生けられた花がある。谷本が置いたものだろう。

「……亡くなられたんですか?」
「ああ。顔もわからない状態だった」

 谷本はうつむいたまま話し出した。

「この周辺の空き地は昔、一般公務員用の集合住宅地だったんだ。爆発があった日は土曜日、俺は出勤日で家にいなかった。仕事が休みだった奴らはみんな家にいた。雨だったんだ。外出するのも面倒な、そんな、雨の日だった」

 谷本は視線を施設があったという場所へ向ける。

「俺がのんきに昼飯を食ってるころに連絡がきた。慌ててここへ戻ってみると、もう、誰もいなくなってた。周囲百メートル、生き残った奴は誰ひとりいない。しかし警察の発表によると死亡者は施設関係者が数名のみだってよ。信じられるか? 実際は何十人も死んだんだぞ。おまけに捜査も何もする気配がないまま時間だけが過ぎて……。あの時も上司とずいぶん怒鳴りあったな。いっそのこと辞めてやろうかとも思ったんだが、警察にいればいつかこの事件の情報が得られるんじゃないかと思って我慢した。まあ、それからずっと情報なんか得られなくて、こうなったら定年まで居座ってやろうって意地だけが残って」
「――でも今回、その爆発事件とつながる情報が得られた」

 アリサが続けた。

「その通り。これはやっぱ、俺にあの事件を調べろってことだろ」

 谷本はニヤっと笑ったが、すぐに悲しそうな表情に戻って供えられた花を見下ろした。

「次の休みには、家族で久しぶりに出掛けようと言ってたんだがな」

 しばらく、二人とも無言で花を見つめ続ける。まったく音がない。まるでそこだけ現実から切り取られた空間のようで、静かな時間だけが過ぎていく。空き地を吹き抜ける風が、ひどく冷たく感じられた。

 どれくらい経っただろう、谷本がふいに後ろを振り返った。そして雰囲気を変えるようにニヤリと笑みを浮かべると明るい口調で言った。

「あそこ、コンクリで固めてある所な、あの下に何か埋まってるらしいぞ」
「……先に言っておきますけど掘り起こすのは無理ですよ? 国の管理地だし、何より薬品とか残ってたらガスが発生している可能性もありますから危険です」
「わかってるよ。ったく、現実的な奴だな。つまらん。もう行くぞ」

 二人は車に向かって歩き出した。

「どこ行くんですか?」
「俺の家」
「じゃ、寮の近くで降ろして下さい。わたしも帰りますから」
「いや、お前も来い」
「……何を言ってるんですか」
「お前、ボードに詳しいんだろ? 教えろ。検索とかもっとスムーズにできるようになりたいんだ」

 アリサは立ち止まり、腕を組んで考えた。

「部屋、汚くないですよね?」

 だが、谷本は振り返ってニヤリと笑っただけだった。


☽ ☽ ☽ ☽


 ドアの向こうから慌しく足音が近づいてくる。大きな音を立てて開いたドアから黒沢が顔を強張らせて入ってきた。彼女は少し首を傾げる。黒沢は彼女の肩をつかむと息を整えるように深呼吸を繰り返し、早口で「君、何か事件を起こしたの?」と言った。
 何のことかわからず、彼女はさらに首を傾げる。

「さっき警察から電話があってさ、君が事件と関係してるかもしれないから会わせろって言うんだ。そりゃもうすごい剣幕だったよ。ねえ、何かしたの?」

 彼女はゆっくりと首を横に振った。それを確認して黒沢はほっと息を吐く。

「そっか。そうだよね。君、一歩もここから出てないし。そう、よく考えてみたらそうだよ。まったくあの刑事、いい加減なことを」

 黒沢はそう言うと、額に手をあてた。

「明日来ることになっちゃったんだ。あ、でも大丈夫。僕も一緒にいるから。僕が厳しく言ってやるから心配しなくていいよ。ごめんね、いきなり」

 彼は一方的にそう言うと、自分の髪と服を整えた。そして「じゃあ、また明日」と手を振り、その刑事の悪態をつきながら出て行った。

 明日、刑事が来る。しかし彼女には心当たりがない。黒沢がああ言っていたのだから任せておけばいいのだろう。彼女は歌い始めた。

 ――あともう少し。

 何があと少しなのかはわからない。だが、そう思った。そして心の中が温かくなるのを感じた。彼女は微笑みながら歌いつづける。

 ――あと、もう少し。


前話

次話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?