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過ぎる秋の火曜日(全文公開)

 夏の余韻が残る火曜日の午後。やわらかく跳ねる波の音を聴きながら、平原七海はベンチに座って海を眺めていた。観光施設の敷地内にある芝生広場。普段は観光客で賑わうこの広場も、施設の休館日である火曜日だけは閑散としている。施設の隣にある桟橋では時間通りにフェリーが着岸し、再び海へと出て行く。その様子をぼんやり眺めるのが好きだった。

 静かな、穏やかな時間。

 それを邪魔するように、ブレザーのポケットに入れていたスマホが鳴った。メールだ。開いてみると、同じ高校に通う幼なじみの矢野智恵からだった。

『いつ帰ったの?』

『昼休憩。お先に』

 七海はそれだけ送り返すとスマホの電源を切った。学校をサボるのはいつものこと。智恵も、これ以上は何も言ってこないだろう。小学生の頃から学校は好きではなかったが、それでも高校一年まではなんとか通っていた。しかし二年に進級してからというもの、なんとなくサボることが多くなっていた。きっかけがあったわけではない。しいて言うならば、智恵とクラスが別れたことくらいだ。適当に登校して適当にサボる。それが今の七海の毎日だった。

 ゆったりとした波の音に耳を傾けながら空を見上げる。夏と秋の狭間にしか見られない、突き抜けるような爽快な青空。心地よく乾いた風を感じていたそのとき、近くで空気が動いた。
「ここ、座ってもいいかな」
 言いながら隣に座った男は八重歯を覗かせて笑う。知らない男。だが、彼が着ているのは見慣れた高校の制服だった。
「同じ学校……?」
 呟くと彼は笑顔のまま頷いた。
「うん。一緒だよね、平原さんも」
 七海は眉を寄せて彼の顔をじっと見つめる。もしかして同じ学年だろうか。しかし、覚えがない。疑問が伝わったのか、彼は憮然とした表情を浮かべた。
「俺のこと知らないんだな、やっぱり」
 言ってから「仕方ないか」とため息をつく。そしてまた八重歯を覗かせて右手を差し出してきた。
「俺、四月に転校してきた三組の吉浦宗佑。よろしく、一組の平原七海さん」

 ふわりと吹いた秋風が宗佑の髪を揺らす。

七海が呆然としていると彼は強引に右手を掴んできた。
「ちょっと、やめてよ。なに、いきなりセクハラ?」
 言ってから手を引くと、彼は大げさに両手を挙げてみせた。
「なんでそうなるんだよ。ただの挨拶だろ? あ、い、さ、つ」
「普通、ただの挨拶で握手なんかしない」
「アメリカ人はするじゃん」
「知らないし、あたしは日本人だし」
 答えながら七海は怪訝に思う。転校生で別のクラス。それなのに、なぜ彼は自分のことを知っているのだろう。
「三組……?」
 呟きながら手元のスマホに目を向ける。そういえば智恵も三組だったはずだ。
「もしかして智恵の友達?」
「ん? ああ、矢野さんね。そうだよ、席が隣で。彼女がいつも君のこと言っててさ。二年になってから学校サボるようになって心配だって」
「ふうん。心配無用って伝えておいて」
「いやいや。やっぱ友達なら心配だろ、普通。なんで学校来ないの?」
 別に、と答えると彼は「わかった!」と思いついたように指を一本立てた。

「友達がいない、だ!」

 七海は宗佑を睨みつけると立ち上がった。その勢いに任せて彼の後頭部を鞄で殴りつける。
「いって! なに、図星? マジ? 高校生にもなって友達作れないの?あ、もしかしてコミュ障?」
「もう帰るから」
 背中で何か声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま七海は帰宅した。

「今日は帰っちゃダメだからね」
 翌日の朝、一緒に登校していた智恵がそう言って顔を覗きこんできた。七海は適当に頷いてから「あ、そうだ」と彼女を睨みつける。
「あんた、あたしのこと転校生に言ったでしょ。やめてよね、まったく知らない奴に人のこと話すの」
「え、なにそれ。誰に?」
「転校生。なんだっけ、吉浦?」
 すると智恵は「ああ、それね」と肩をすくめた。
「別にいいでしょ。話のネタよ、ただの」
「人のことネタにしないでよ」
「まあまあ。で、会ったの? 吉浦くんに」
「うん。昨日、広場でのんびりしてたら邪魔された。なんであそこに現れたのか謎なんだけど」
「広場って……。ああ、ミュージアムの裏か。ごめん、あたしが教えた。七海、火曜日はいつもあそこで学校サボってるって」
「やっぱりあんたか……」
「ごめんって。で? なに話したの。初対面だったんでしょ」
「なにって、自己紹介された。で、なんで学校来ないのかって聞かれて適当に流したら、すっごい失礼な発言を連発された。すっごいムカつくんだけど、あいつ。……でも、そういえば、なんであたしの顔知ってたんだろ」
 するとなぜか智恵が面白そうに声をあげて笑った。
「そりゃ知ってるでしょ。七海ってサボるとき堂々と正門から帰るんだもん」
 意味がわからず眉を寄せていると彼女は「だから」と続けた。
「教室の窓から丸見えなんだよ、帰る姿。吉浦くん、窓際の席だから見てたんじゃない?」
「けどさ、ふつう面識もない相手にいきなり話しかけたりする?」
「んー。まあ、吉浦くんと七海って似てるところがあるからねえ。学校サボること多いし。仲間意識みたいなの、持ってるんじゃないの」
「……そんな奴に、なんで学校来ないのって聞かれるあたしってなによ」
 七海が顔をしかめると智恵はまた声をあげて笑った。

 それ以来、火曜日になると彼は芝生広場にふらりと現れては当たり前のように七海の隣に座り、ダラダラとくだらない話をしながら過ごすようになっていた。
「あそこのさ――」
 今日という火曜日もまた、なぜか隣には宗佑が座っていた。彼はベンチに手をついて身体を逸らし、後ろの建物へ視線を向ける。
「あのミュージアムってなに展示してんの?」
「この街、昔は軍港だったから戦時中に作られた軍艦とかについて展示してあるらしいよ。入ったことないけど」
 ふうん、とあまり興味なさそうに宗佑は頷く。そしてぼんやりと空を仰いだ。
「そういえばさ、もうすぐ学祭じゃん。平原のクラスは何するの?」
「映画上映やるとか言ってたかな、たしか。そっちは?」
「あー、駄菓子屋」
「準備が楽なもの選んだね、やっぱり」
「あんまり盛り上がらないんだってな」
 宗佑は空を眺めたまま言ったかと思うと「けどな」と続けた。

「俺、個人参加しようと思うんだ」

 嬉しそうに笑みを浮かべて彼はこちらに顔を向ける。
「個人参加ってできるもんなの?」
「なんか、申請すればできるんだってさ」
「へえ。何するの?」
「それは来週までのお楽しみ」
「なにそれ」
「まあまあ。来週の火曜日、発表してやるからさ」
 彼はそう言うと、八重歯を覗かせて笑った。七海はそんな彼を横目で見ながらため息をつく。
「あのさ、なんで毎週あんたに会うのが習慣になっちゃってるわけ? あんた、学校行きなよ。あたしが言うのもなんだけどさ」
「いやほんと。平原にだけは言われたくないわ」
 だよね、と七海は苦笑した。
「ま、いいじゃん。俺、ここ気に入ったんだもん。人もいないし、海近いし、海の向こうは島だらけでなんか面白いし、船見れるし」
 そう言って彼は桟橋を指差す。そのとき少し上がった彼の制服の裾から包帯のようなものが見え、七海は首を傾げた。
「怪我してるの?」
 宗佑は不思議そうな表情を見せたが、すぐに自分の腕を見て「ああ、これか。ちょっとぶつけてさ」と頷いた。そして腕時計に目をやりながら立ち上がる。
「俺、もう行くわ。お前もちゃんと学校行けよ」
「はいはい」
 適当に頷くと宗佑は「行く気なさそうな返事」と笑いながら去って行った。七海はなんとなく笑みを浮かべながら、ベンチに手をついて空を仰ぐ。乾いた風は潮の香りがした。

「お、感心、感心。今日は朝から来たんだ」
 金曜の朝、バスを降りて学校へ向かっていると智恵が追いついてきた。七海は頷きながら「でも」と口を開く。
「最近はちゃんと朝から来てるでしょ」
「秋だから、ね。あんた、秋好きだもんね」
 七海は笑って頷いた。
「そういえば、あれからどう? 吉浦くんとは」
「どうって?」
「どっかで会ってたりするのかなぁって」
 そう言った彼女の表情は、何かを期待しているように見える。
「別に……。学校で会ったら挨拶する程度だけど」
 なんとなく、広場で会っていることは話したくなかった。すると彼女は「なんだ、残念」と肩を落とした。
「でも、学校でもそんなに会わないんじゃないの? とくに最近、吉浦くんあんまり来ないしさ」
「まあね。なんで来ないんだろうね。ああいう性格だと友達も多いだろうし。きっと学校って楽しいとか言ってるタイプだと思うんだけど」
「だよね。あたしも不思議だった。なんでだろうね」

 結局、その日も宗佑は学校に来なかった。

 翌週の火曜日。ぽかぽかと光を浴びながら海を眺める。少し風が強いのか、いつもより波が荒い。遠くに視線を向けると大型の船がのんびりと浮いていた。
「おまたせー」
 声と共に隣の空気が動く。
「別に待ってないんだけど。せっかく気持ちよく日光浴してたのに」
 邪魔しないでとばかりに言ってやると、宗佑は左手をヒラヒラさせて「まあまあ」と笑った。そして背負っていた荷物をそっと膝の上に乗せる。

黒く、細長いケース。

「それ、ギター?」
「そう。今、リペアから上がってきてさ」
 言いながら彼は嬉しそうにソフトケースのファスナーを開けた。中に入っていたのは茶色いボディのエレキギター。
「ギブソンのレスポール。型は、ちょっとわかんないけど」
「買ったの?」
「まさか。高校生が買える代物じゃないよ。これは親父の。昔バンドやってたみたいでさ」
「もらったんだ?」
 すると彼は複雑な表情で「まあね」と頷いた。
「で? 学祭、これで何するの?」
「何って、ギターだぞ。弾き語らないでどうするよ」
 彼はいつものように八重歯を見せて笑うとケースのポケットからクリアファイルを取り出した。そこには手書きの楽譜が収められている。
「え、なに。曲、作ったの?」
「そう、作ったの。俺ってすごいでしょ」
 彼は言いながら右手に持ったピックを軽く振った。ペランと軽い音が鳴る。
「その曲やろうと思ってんだけど、まだ歌詞ができなくてさぁ」
「作ればいいじゃん。パパッと」
 七海が言うと彼は深くため息をついた。
「平原ってば、冷たい」
「なんでよ」
「詞、作ってあげようか? とか言ってほしいのに」
「……なんでよ」
「俺が困ってるから」
「だから?」
 なおも聞き返すと、彼はもう一度ため息をついてやれやれと首を振った。
「友達なら助けるでしょうよ、普通」
「え。吉浦って友達だったの?」
「えっ!」
 本気で言ったわけではなかったのだが彼はひどく傷ついたような表情を浮かべ、がっくりとギターを抱えてうな垂れてしまった。
「うそ、冗談だってば。歌詞ね、うん。別にいいよ。作ればいいんでしょ?」
 慌てて言いながら、七海はファイルを手に取った。隣で押し殺したような笑い声が聞こえる。見ると、宗佑が口に手をあてて笑っていた。まんまとやられたと悟り、七海は眉間に皺を寄せて睨みつけてやる。
「まあまあ、そう怒りなさんな。歌詞、作ってくれるんだよね?」
 釈然としないまま七海は渋々頷く。しかし楽譜を見ただけでは曲がわからない。そう言うと彼は待ってましたとばかりにCDを取り出した。
「録音したから、それ聴いて作ってよ」
「……あんた、最初からそのつもりだったでしょ」
 すると彼は声をあげて笑った。

 帰宅して聴いた宗佑の曲は、彼らしい明るくアップテンポな曲だった。これにどんな歌詞をつけろというのか。もちろん七海は一度だって歌詞を書いたことはない。どのように作ればいいのかもわからない。わからないから、少し楽しい。

 その日から一週間、学校に行くこともせずに七海は歌詞作りに没頭していた。

「できた?」
 ギターケースを抱えた宗佑が目を輝かせてこちらを見ている。七海はそんな彼から目を逸らし、海を見つめた。
「今日も波が穏やかだねえ」
「……できてないんだな?」
 宗佑は目を細めて眉間に皺を寄せると、深くため息をつく。
「知ってる? 学祭、二週間後だぜ」
「知ってるよ。つうかさ、歌詞なんて素人がそんなすぐに作れるわけないじゃん」
 それを聞いて宗佑は微笑った。
「別に適当でいいんだって。ただ学祭で歌うだけなんだから」
「考えすぎて、その適当っていうのがすでにわかんない」
 すると宗佑は「そうだなぁ」と視線を海へと移した。ちょうどフェリーが出航したばかりで、向かいに見える島へとまっすぐ進んでいる。

 どこかで汽笛が響いた。

「ここでこうしてぼんやりしてるときに思ったこととか、そんな感じでいいんじゃね? 思いついた言葉を並べるだけでもいいし。ま、適当だよ。テキトー」
「テキトー、ねえ……」
 ため息混じりに言うと宗佑はギターケースを担いで立ち上がった。
「そ。テキトーに考えてよ。俺、今日はもう帰るからさ」
「もう? 来たばっかなのに」
 思わず言ってしまってから七海は口をつぐんだ。宗佑が含みのある笑みを浮かべている。
「なに、もしかして寂しい?」
「別に。ただ、いつもはくだらない話していくのになって思っただけ」
「いやー、今日はちょっと忙しくてさあ」
「いつも思ってたんだけど、学校サボって何してるの」
「バイトだよ」
「バイト……?」
 前に智恵が同じことを聞いたときには笑ってごまかされたと言っていた。しかしバイトなら隠すようなことではない。学校の規則では禁止されているものの、隠れてしている生徒は多いはずだ。
 不思議に思っているうちに彼は「じゃあな」と手を振って行ってしまった。その後ろ姿を見て七海は怪訝に思う。歩く宗佑は右足を引きずっているように見えたのだ。怪我でもしているのだろうか。しかし、遠くなった彼に声をかけることはできなかった。

 翌週、七海はなんとなく緊張しながらベンチに座っていた。じっと彼の肩越しに芝生を見つめる。
「ふうん」
 息を吐くような宗佑の声がした。視線を戻すと、彼はおもむろにケースからギターを取り出してボディに繋げたコードの先を小さなスピーカーのようなものに取り付けた。
「なにそれ。ちょっとボロそう」
「ポータブルアンプ。使い古しのもらい物だけど、ギリギリ音は出る。」
「弾くの?」
「弾くよ。音量絞ってやれば、迷惑にもならないだろ。どうせ誰もいないんだし」
 言いながら彼はアンプのつまみを回して軽く弦を弾く。前に聞いたときとは違う、太く重みのある音が響いた。妙に感動しているうちに、宗佑はピックを振り始めた。

 自宅で何度も聞いた宗佑の曲に七海が書いた詞が乗る。

 彼の歌声は柔らかく、心地よかった。

「どう?」
「あ、うん。いいんじゃないかな。よくわかんないけど」
 言いながらギターを見つめる。宗佑は不思議そうに首を傾げた。
「……それ、難しいの?」
「ギター?」
 七海は頷いた。宗佑は小さく唸ってから「どうかな」と答えた。
「まあ楽器だから、練習は必要だろ。俺も最初の頃は毎日弾いてたし」
「いつからやってるの」
「中学に上がった頃。弾いてみたいの?」
 七海は自然と頷いていた。宗佑はストラップを外して七海にギターを差し出す。
「いいの?」
「弾きたいんでしょ」
 頷きながら七海はギターを受け取り、ストラップをかける。そして渡されたピックを見様見真似で構えてみた。
「上から下に、ピック振ってみ」
 言われるままに手首を動かすと、応えるように小さなアンプから音が出る。
「よし。じゃあ、簡単なコード押さえてみるか」
 なぜか宗佑は嬉しそうに七海の前に立つと一緒になって弦を押さえた。しかし弦を押さえても、なかなかその通りの音がでない。

 変な音が出るたびに二人で声を出して笑う。

 その時間はとても楽しく、あっという間に過ぎていった。

「平原! ちょっと、帰るのストップ!」
 木曜日。いつものように昼休憩のうちに帰ろうと下駄箱で靴を履いていると後ろから声が響いた。振り向くと、息を切らせた宗佑がなぜかギターケースを肩に担いで片手を挙げている。
「なに、どうしたの? 早く行かなきゃ先生に見つかっちゃうんだけど」
「いやいや、あんな堂々と正門から帰っておきながらそんなこと気にしてるのかよ。つうか、留年するぞ」
「しないよ。テストだってちゃんと受けてるし。しない程度にこうして学校来てる」
「そっか」
 彼は控えめに微笑った。いつもと少し様子が違う。不思議に思っていると、彼はギターケースを差し出してきた。
「これさ、預かっててくれないかなぁと思って」
「あたしが?」
「ちょっと家に置いとけなくてさ。頼むよ。な?」
「まあ、別にいいけど。学祭に持ってくればいいんだよね。けど、それまで練習は?」
「いいの、いいの。あ、ついでにメンテもしといて」
「なんであたしが。やり方も知らないのに」
「まあまあ、メンテ方法なんてネットでいくらでも出てくるって。頼んだからな。壊すなよ?」
 彼はそう言って八重歯を見せて笑った。

 それはもう、いつもの彼の笑顔と同じに見えた。

「学祭、練習不足でミスってもしらないからね」
 宗佑は大丈夫だというように頷くと、校内へ戻って行った。
 

 そして学祭当日、ギターを担いだまま七海は三組の教室へ向かう。中を覗くとすぐに智恵がこちらに気づいて声をかけてきた。
「ねえ、吉浦知らない? 探してるんだけど」
 すると彼女は驚いたように目を丸くした。
「もういないよ。昨日、学校に来ないまま転校して行っちゃって」
「えっ……」
「あたしも昨日、先生に聞かされて知ったんだけど、家庭の事情が複雑だったらしいんだよね」
「事情?」
「うん。先生がこっそり教えてくれた話によると、父親の暴力がひどかったんだって。父親って言っても、義理の父親だったらしいんだけど。お母さんはしょっちゅう怪我してて、その治療費も父親は出さないから吉浦くんがバイトしてたんだってさ。ようやく離婚が成立して、お母さんと一緒に引っ越したって」
 そんな話、聞いたこともなかった。しかし、思い出した彼の姿はいつも怪我をしていたように思う。腕の包帯も、足を引きずっていたのも父親からの暴力だったのだろうか。

 どうして言ってくれなかったのか。

 そう思うと同時に、どうして自分は気づかなかったのか。どうして聞こうとしなかったのか。そんな後悔が一気に七海の胸に押し寄せていた。

「それ、どうしたの」
 智恵の目は七海の肩に向けられている。
「ああ、ギター。吉浦の」
 その途端、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「そういえば、個人参加するとか言ってたよね」
「うん。これ、預かっててさ。大事そうにしてたのに……」
「でも、大事な物なら取りにくるんじゃないかな。落ち着いたら」
「そうかな」
 そうだよ、と頷いた智恵はクラスメイトに呼ばれて行ってしまった。

 三組の教室は机が一列に並べられ、小分けされた駄菓子が置かれてあった。いつもと違う学校の雰囲気。その中で七海だけが取り残されている気分だ。肩がひどく重い。ギターはこんなにも重かっただろうかと七海は一人、俯いた。

 火曜日。穏やかな午後。観光客もいない芝生広場。海はやわらかく凪いで、光を反射させている。七海はいつものようにベンチに座った。二人掛けのベンチはひどく広い。たいしたことではない。少し前に戻っただけ。

 小さく息を吐きながらギターケースを隣に置くと、その膨らんだポケットを開ける。中にはボロボロに使い込まれた教則本と楽譜が入ったファイル。ファイルの中には何度も聞いたあの曲の楽譜と詞が入っている。そこから詞だけを取り出して握りつぶすとポケットに入れた。

 七海はギターを取り出すとストラップを肩にかけるとボロボロになった教則本を宗佑が座っていた場所に置いて開いた。

 新しく歌詞を書こう。そして、いつかまた会ったときに聞かせてやるのだ。ここで過ごした彼との時間を詞に乗せて、彼の曲を、彼のギターで。それを聞いて彼は笑うだろう。やんちゃそうに八重歯を覗かせて。
 右手のピックを軽く振った。アンプを通さないギターの音は、細く、薄く、沖から届いた汽笛の音に消えていった。吹いた風は秋の終わりを告げていた。 

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