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白い月に歌は響く 第一章③

 神社のある崖から二十分ほど走ったところにその浜はあった。谷本とアリサは車を降りて、波打ち際へと向かう。

「ところで谷本さんの車、まだガソリン使ってるんですか? 公用車じゃないですよね」

 谷本の車は一般に出回っている車より揺れが激しかった。最初は道のせいかと思っていたが、どうやら違う。運転席のメーター類を見るとすべてが針式なのだ。最近では、ほとんど見ることのない代物である。

「ああ。新しい車を買わされそうだったんだが、なんかしっくりこなくてな。最近のやつは走ってる感じがしないんだ。エンジン音も聞こえないし。あれはもう車じゃないな」
「でも、旧式の車ってもうすぐ全部回収されるんじゃないですか? 環境基準の問題で。排気ガスの放出量が多いし。ガソリンの価格だって相当上がってますよね」

 確か何十年か前に世界一の石油産出国で紛争起き、ガソリンの価格が急高騰した。その直後、発展途上国で大量に石油を使用し始めたため、深刻なエネルギー不足となってしまったのだ。現在も価格の高騰は続いており、各国で使用量の規制と監視が行われている。もちろん、谷本もそれを知っているはずだ。彼は「そうなんだよなぁ」と深くため息をついた。

「まだ元気に走るんだが、ガソリン代が馬鹿にならん。かといって、あのソーラーハイドロゲンカーってのはなあ」
「いいじゃないですか。晴れの日はソーラーエネルギーで雨の日は水素で走るんですよ。エネルギー代もガソリンとは比べ物にならないほど格安ですし、スピードとブレーキも制御されてて安全です」

 アリサは歩きにくい浜を靴の中に砂が入らないように注意しながら慎重に足を進める。しかし谷本はそんなことお構いなしにどんどん先へ歩いて行ってしまう。

「スピード制御ってのもなあ。いくらアクセル踏んでもぜんぜん加速しねえし。っと、ここだ。……おい、何してんだ! 早く来い

 遥か向こうの方で谷本が呆れた表情をこちらに向けている。

「これで精一杯です。ちょっと待っててください」

 アリサは答えながら足元と谷本を交互に確認しながらゆっくりと足を進めていく。

「やれやれ」

 谷本のため息が聞こえたが気にしないことにした。


● ● ● ●


 谷本はヨロヨロと近づいてくるアリサを見ながら思った。最近の若者は誰もがこのように必要以上に汚れを気にするのだろうか。谷本は今まで事件ばかり追ってきて、周りを気にしたことはなかった。
 いつの間にか世間から取り残され、仕事場では浮いた存在だということは分かっているつもりだ。自分が捜査に参加することで現場の雰囲気を崩してしまっていることも重々承知している。
 今の現場の人間は若い者ばかりだ。自分は今年で四十八歳。ほとんどの同年代の人間は早期退職していき、残った者もうまく立ち回って上へと昇進していった。仲間が退職していくのを見ながら、谷本は思ったのだ。

 自分だけは意地でも定年までここにいてやろうと。

 上にも行かず、もちろん下にも行かない。何を言われようとも、自ら仕事を辞めることだけは決してしない。その結果、こうして素人同然の女のお守りをさせられている。現場から外されたも同然だ。
 この娘は自分を現場から遠ざけるため利用されたに違いない。それは彼女にとっては幸いかもしれない。退屈な雑用から開放されたのだから。いや、この様子ではまだ雑用の方がマシだったと思っているかもしれない。

「お待たせしました」

 谷本は現実に戻された。見ると、アリサは少しだけ靴についた砂を過剰なまでに払っている。

「明日から抗菌ブーツ持ってきた方がいいんじゃないか?」
ええ。そうします。絶対に

 力強く彼女は答えてファイルを開く。

「ここに死体が流れ着いたんですか。で、漁師が発見した」

 言って、彼女は首を傾げる。

「……谷本さん、漁師ってなんですか? 人の名前でしょうか」

 谷本は一瞬、なにを言われたのか理解できず、阿呆のように口をあけてしまった。

「お前、漁師を知らないのか?」
「ええ、知りません。どこかで聞いたような気はするんですが」
「マジか? 漁師ってのは、あれだよ。船で海に出て、網で魚を捕る人達のことだ」
「網で? 捕魚船とは違うんですか?」
「捕魚船は養殖海域に囲いを作って、根こそぎ魚を吸い上げるだろ。猟師は自分の目で捕る魚と逃がす魚を見極めて、一匹ずつ網から外すんだ」
「あー。小さい頃に教わったような。なるほど、職業ですか。まだいるんですね」
「少なくなったけどな。魚捕るのも制限かかっちまったし、いろんな検査しなけりゃ出荷できないから、儲かりゃしねえんだろ」
「なのに、なんでまだしてるんでしょうね」

 アリサは不思議そうに呟きながらファイルに目を落とした。確かに彼女くらいの年齢の若者には分からないのかもしれない。きっと仕事が楽しいと思ったことすらないのだろう。

 仕事とは、金を得るための手段であり作業である。

 以前、若い刑事が言っていた言葉を思い出す。谷本は自分が若い頃はどうだったか思い出そうとしたが、遠い昔のことで記憶は埋まってしまっていた。

「ま、ここには特に何もない。犯人が直接ここに来たわけでもないし。死体を発見したじいさんもそこに書いてあることしか知らないそうだ」
「そうですか」

 アリサは頷いてポケットからボードモニターを取り出した。今までの情報を打ち込むのだろう。
 ボードモニターは国民のほぼ全員が所持している携帯端末で通称『ボード』と呼ばれている。手帳ほどの大きさの折りたたみ式キーボードを開くとその上部にモニターが表示され、情報の検索、入力、メール通信や音声通信などあらゆることができる。この端末ひとつで様々な情報を入手可能なうえ、持ち主の個人情報も記録されているため、それぞれの端末情報はすべて中央管理局で厳しく管理されている。多機能ゆえに膨大なデータ通信が行われるが、回線をボードの登録地別に分ける方法が開発されてからは、とくに問題なく普及が進んだと聞いた。もっとも、谷本にはよく理解できていないが。

「ところでどうして谷本さんは紙媒体のファイルを持ってるんですか? ボードを持ってないのなら、備品部で仕事用のを貸してもらえますけど。まあ、多少性能は制限されてしまいますが」
「あー、俺は使えねえから」
「え、でも採用試験にボード操作の試験がありましたよね?」
「俺のときはまだなかったんだよ」

 谷本が警察官に採用されたときは、まだデスクトップ型のパソコンが主流だった。

「そうなんですか。でも、使えた方が色々と便利ですよ。……そういえば、警察の資料も専用データベースにちゃんと保存してあるのに、なぜか紙媒体のファイル資料もいまだにあるんですよね」
「俺みたいな年寄りのためにな。あれもそのうちなくなるだろ」
「だといいですけど。整理が面倒なんですよね、あれ」

 アリサはデータを打ち終えてボードを閉じると、ふと気づいたようにこちらを見てきた。

「谷本さん、被害者のボードから何かデータは取れなかったんですか?」
「ああ、海水に浸かってたうえにかなりの衝撃受けたらしくてな。いくら防水加工してあっても、あんだけボロボロになったら意味無しだ。基板までやられてたらしいぞ。今、システム調査部が修復がんばってるみたいだが」
「ああ、そうなんですか。何かわかるといいですね」

 彼女はまるで他人事のように呟いて車を振り返る。

「それで、次はどこへ?」
「あー、そうだな。あとは聞き込みか」

 谷本は頭に手をやりながら答えた。情報がないため他の捜査も進まない。聞き込みをするにしても近くに人がいないため、どこから始めればいいのかわからない。実際、谷本も今までこの二カ所を行ったり来たりしていただけだった。他の刑事が何をしているのか知らないが、おそらく捜査用モニターと睨めっこでもしているのだろう。ネットで情報集めをするのが今の時代の聞き込みらしい。

「聞き込み、ですか」

 そのとき、突然アラームが鳴り響いた。アリサは驚いた様子もなくボードを確認すると「今日の勤務は終了ですね。お疲れ様でした」と頭を下げて慎重に車の方へ戻り始める。
 公務員の勤務時間は朝八時三十分から夕方五時までと決まっており、原則として残業は禁止となっている。残業をするのなら申請書を提出して手続きをとらなければならないのだ。昔ならありえないことだと思いつつ谷本も車へと戻る。

「今日の収穫はゼロでしたね。明日、またよろしくお願いします。では失礼します」

 アリサはもう一度丁寧に頭を下げると車には乗らず、背を向けた。

「おいおい、まさか歩きで帰るつもりか? このあたりはバス通ってないぞ?」
「ご心配なく。タクシー呼びますから」

 言った彼女はわずかに眉を寄せて車を見た。どうやら乗りたくないようだ。

「なんだよ。安月給なのに無駄金使うことないだろう。署まで送ってやるから乗れって」

 しばらくアリサは車を見つめて考えていたが、渋々といった様子で頷いた。

「……それじゃあ、お願いします」
「はいはい」

 それでも彼女は車に乗ることをためらうようにしばらく考え、やがて諦めたように息を吐いてから助手席に乗り込んだ。何をそんなに警戒しているのだろうか。谷本は不思議に思いながら運転席のドアを開けた。

「――あの、谷本さん」

 車を走らせてしばらくすると、アリサは迷うような素振りで口を開いた。

「なんだ」
「この車、消毒してますか?」

 谷本が答えないでいると、アリサは少し身体を動かして後部座席を覗いた。

「してないですよね。消毒どころか、掃除も」
「何だよ、いまさら。来るときもこの車だったんだぞ?」

 谷本の答えに彼女は「そうですけど」と強い口調で言う。

「今日はギリギリ我慢できましたが、明日、もしまたこの車に乗るなら、まず車内を徹底的に消毒しますからね」
「はいはいはいはい。わかったよ」

 谷本は大きく舌打ちすると、わざとアクセルを踏み込んだ。スピードメータの針がぐんぐんと上がっていく。助手席でアリサが身を硬くしたことに気づいたが構わない。公用車ではこんなスピードで走ることはないだろう。谷本はニヤリと笑いながら、さらにスピードを上げてやった。


○ ○ ○ ○


 署に戻ったアリサは谷本と別れ、荷物を取りに部屋へ向かった。凶悪犯罪課の部屋にはすでに誰もいない。当たり前だ。わざわざ面倒な手続きをしてまで残業しようとする者はいないだろう。昔は日本人が世界で一番働く時間が長かったらしいが、今ではその面影もない。
 アリサは置きっぱなしにしていたデータディスクを鞄に入れるとさっさと署から出て家へ向かう。家と言っても独身寮の一室だ。新築だが家賃は格安、セキュリティもしっかりしているため人気の寮である。
 ロックを解除してドアを開けると自動的に明かりが点いた。部屋に入る前に身体についた埃を払い、シューズボックスの上に置いてあった消毒スプレーを服と靴に吹きかける。そうしてから、ようやく部屋に入る。

 アリサはベッドに腰掛けると、ため息をつきながら壁に備えつけられているスクリーンのスイッチを入れた。
 品のいいスーツを着た男性キャスターが今日のニュースを伝えている。しばらく眺めていたが、あの事件については何も伝えられない。進展がないのだから当然だろう。アリサはもう一度ため息をついてボードを開くと、いつものようにデータのバックアップを保存した。

 ――それにしても。

 なぜ自分が捜査員に。いや、理由はわかっている。谷本を捜査の現場から遠ざけるためだ。今の警察は犯人の手掛かりが全くない事件を捜査したがらない。人手を多く必要とするうえに全く進展しないからだ。さらに人材の余裕がない。今回のような事件は数週間ほど形だけの捜査が行われ、捜査本部は解散してしまうことが常だ。上層部は今回もそうするつもりなのだろう。しかし、谷本はあまりに早い本部解散にいつも反対している。これまでに何度も、課長と怒鳴り合っている谷本の姿を目にしてきた。そのため今回は谷本を捜査の中心から外し、一切の情報を渡さないようにして本部解散に口出しさせないつもりなのだろう。自分は、そのために利用されているだけだ。

「ま、どうでもいいけど……」

 アリサはボードを閉じると明日使うことになるであろう、抗菌ブーツと消毒消臭スプレーの準備をして「今日は早めに寝よう」と一人呟いた。

 インスタントの夕食を食べてからシャワーを浴び、念入りに身体を洗い流す。シャワーから上がって時計を確認すると、まだ八時過ぎ。いくらなんでも寝るには早過ぎる。かといって何もすることがない。仕方なく、スクリーンをぼうっと眺めることにした。

 今の時間帯に放送されているのはバラエティーと音楽番組しかないようだ。馬鹿らしい番組よりはいいだろうと音楽番組を選択する。しかし、普段から音楽には興味がないので、そこに映っている歌手が誰なのかわからなかった。名も知らない歌手が歌うのを、ベッドに横になって見つめる。

 それにしても、とアリサは再び思った。

 なぜ谷本は捜査の打ち切りに毎回反対するのだろうか。そういうことをしなければ、このように捜査から外されることもないのに。何か理由があるのか。それとも昔ながらの捜査から抜け切れないだけなのか。

 そこまで考えてからアリサは思考を中断した。やめよう。他人のことなんて考えても仕方ない。他人に深入りして、いいことなど何もないのだ。それよりも明日からの自分の心配をしよう。そうだ。明日、朝一番に谷本の車を消毒しなければ。あんな車にまた乗るのはうんざりだ。

 うとうとし始めたアリサの耳に歌が届いた。とても心地よい歌声。なんという曲だろう。妙に心に響く歌声を聞きながら、アリサは心地よい眠りへと落ちていった。


☽ ☽ ☽ ☽


靴音が近づいてくる。彼女がドアに目を向けると黒沢が静かに入ってきた。

「やあ。新曲、浮かびそう?」

にこやかに言う黒沢に、彼女はゆっくり首を横に振った。

「そっか……。そりゃそうだよね。できたばかりだし」

言いながら彼はソファに腰を下ろしてベッドに座る彼女を見た。

「今日、さっそくあの曲の売り込みを開始したよ。配信開始は、そうだな……。来週かな。いいよね?」

手帳をめくりながら彼は聞く。彼女が断ることはないことを彼は知っている。それでも許可を求めるのは彼なりの気の遣い方なのだろう。彼女はゆっくり頷きながら黒沢を観察した。

こうしてじっくり見るのは初めてのような気がする。身長は百七十センチぐらい。やせ型、というよりはやせ過ぎか。頬のこけた顔には小さくてつりがちの目が くっついている。口も鼻も小さい。狐のような顔だ。黒い髪の毛は長めで少し目にかかっていた。歳は三十歳ぐらいだろうか。いや、もう少し若いようにも見え る。

彼女がこうして観察している間も、黒沢は手帳を見ながら何度も頷いていた。

「さっきオンエアした音楽番組でも流したから、きっと今アクセス数すごいと思うよ。いやー、ラッキーだったな。君みたいな子がうちに所属してくれて」

彼女は黒沢の言葉など聞いていないかのように窓の外を見ていた。しかし、そんなことはお構いなしに彼は喋り続ける。

「そういえば、最近スクリーンを見るようになったんだね。記録が残ってる。いいことだと思うよ。日々、情報収集しないと流行に乗り遅れちゃうからね」

流行など別に乗り遅れても構わない。彼女が見ていたのはニュース番組だけだった。なぜかわからないが見たくなった。いや、見なければならないと感じたのだ。しかし、そんな思いに駆られて見たニュースに何を感じることもなかった。

「よし。じゃあ、来週配信開始ということで話を進めるから」

そう言い残して黒沢は部屋を出て行った。彼女は遠ざかる靴音を静かに聞いていた。

音が、消えてしまうまで。

外はすでに夜。曇っているのか月も星も見えない。黒沢は彼女の歌を売って収入を得ているらしい。彼女にも当然、金が入る。無理矢理作らされた電子口座には かなりの額が貯まっている。しかし彼女がそれを使うことはなかった。使う必要もない。ただ、何かのために貯めなければと思う。なんのためなのかわからな い。自分のためにではない。

では、誰のために。

――わからない。

彼女は答えの出ない思考を遮断して眠ることにした。

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