『球陽』の天文記事 ~天に光・異光有り~

『球陽』には天に光又は異光があったという記録が4件ある。1件は彗星、残り3件は火球と考えられる。また、隕石の記事もあり、本稿にて記述する。

尚育王九年 天に光有り

本年二・三両月、天に光有り。
此の年、二月初五日より以て三月初二日に至るまで、定更の時、未申の方に光有り等の由、御番頭、下庫理当に逓へて転奏せしむ
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 尚育王九年二月五日は1843III5、三月二日は1843IV1である。
 この時期、宵の西の空にはGreat March Cometと呼ばれる、非常に明るい彗星があった。これは1843II5に南半球で発見された、クロイツ群に属する彗星である。

 近日点通過の1843II27には、日中太陽からわずか4度の所に、肉眼で見えたという。また最長時2A.U.以上という非常に長い尾を持っており、この尾も昼間見る事ができたという。

 III5の日没1時間後には、首里においては彗星の頭部は既に沈んでおり、長大な尾が西から南西の方に伸びていた。初見時に頭部が見えず、水平線からサーチライトの光のように立ち上る尾を、「天に光有り」と記録したのであろう。

 斉藤国治氏は『古天文学の道』の中で、奈良原家蔵『年代記』の「白気」の記事を取り上げているが、Great March Cometとの関連は述べていない。

●[白気]一八四三年二-三月=天保十四年癸卯、正月、この月に入り未申(西)の方、日没方より東へ向いて白気棚引く。申(西南西)の方より未(南南西)の方まで長し。世取り沙汰す。雲にあらず、月射しの如し二時に似たり、二月中毎夜見る。三月に至ってなし。
(『古天文学の道』(斉藤国治 1990)より)

 日没後、暗くなった頃には既に頭部は沈んでいたため、彗星ではなく「白気」「天に光」といった記録になったのではないだろうか。『年代記』の記事が同じものだとすると、大きく距離を隔てたニ地点での観測である事から、少なくともこの記録の「白気」は、オーロラのような大気圏周辺の現象でなく、この彗星の事と考えて良いであろう。

尚灝王二十七年 天に光あり

本年六月二十日夜、天に光有り。
此の夜戌時、申酉間より寅卯間を過ぎ、後、声音有り。下庫理当奏聞す。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 音が聞こえたとの記録から、大気圏内の現象であることは確実である。火球の記事と思われる。西南西から東北東へ流れたとみられる。
 尚灝王二十七年六月二十日は1830VIII8である。
 8月の上旬には、ペルセウス座流星群を筆頭に複数の流星群が活動している。しかしながら、いずれの流星群も戌の刻には輻射点が子午線より東にあり、群に属する流星が申酉から寅卯に流れることはない。散在の火球であったと考えられる。

尚泰王十五年 天に異光有り

本年、天に異光有り。
此の年七月二十八日酉刻の時、天辺酉戌方より光の辰巳方に飛過する有り。消ゆるの後、音有りて聞ゆ。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 尚泰王十五年七月二十八日は1862VIII23である。音が聞こえたとの記録から、大気圏内の現象であることは確実であり、火球の記事と思われる。西北西から南東へ流れたとみられる。この時期に活動する流星群としてははくちょう座κ群が知られているが、酉の刻には輻射点が子午線より東にあり、群に属する流星が酉戌から辰巳に流れることはない。散在の火球であったと考えられる。

尚泰王十八年 天に異光有り

本年、天に異光有り。
此の年八月初三日戊刻の時、喜屋武郡、天辺の東方より光有りて、西方約計十有七八間に飛び過ぐ。其の形、横二寸・長さ二尺五寸計り。其の色、火に青色を交ふ。消ゆるの後、音の聞ゆる有り。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 尚泰王十八年八月三日は1865IV22である。音が聞こえたとの記録から、大気圏内の現象であることは確実であり、火球の記事と思われる。「長さ二尺五寸計り」とは、痕を伴っていたことを表していると考えられる。「横二寸」という記録から大きなものであったことが想像され、隕石として地表に到達した可能性もある。喜屋武郡は沖縄本島の南端にあり、東西方向は短いことから、隕石であったとしても海中に落ちたと思われる。

尚益王二年 一塊の怪石、空より落下す

夏五月、宮古島に一塊の怪石、空より落下す。
宮古島に大雨大雷あり。不意に午刻、久貝村与那覇筑登之の家庭に響くこと雷落の如し。家人皆驚忙し、魄、体に附かず。半にして気を得、庭に往きて之れを観るに、唯一塊石有り。其の形異様なれば、即ち匱中に入れて以て其の家に蔵す。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 尚益王二年五月は1711VI16~VII15である。昼間の雷雨の中、与那覇筑登之の庭に隕石が落ちた記録と思われる。正気を失うほどの轟音がしたようであり、庭にも少なからぬ影響が出たと考えられるが、一切の記述はない。
 この記事のもととなった『宮古島記事』(乾隆本『宮古島旧記』)*には「久貝村在所在所かたいら與那覇筑登之の家」に落ちたと記録されている。「かたいら」の語義は不明だが、個人的に関心を持っているところである。

*明治大学 日本古代学研究所 琉球関連データベース(学術・戦略・科研)

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