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「忠実な信徒」とは誰か?

1969(昭和44)年 8月 4日『週刊読書人』
(作品社編集部編『ERIC HOFFER BOOKエリック・ホッファー・ブック ─ 情熱的な精神の軌跡』作品社、2003年に再録)

エリック・ホッファー著『大衆運動』
作田啓一

 原題は「忠実な信者」(The True Believer, 1951)。拾い読みをした記憶があり、八年前『大衆』というタイトルの同じ訳者の手による邦訳で通読した。今度ふたたび通読し、恐ろしい書物であるという印象を深めた。人間の心の病理に通じている点では、ホッファーはどこかニーチェを思わせるところがある。ニーチェのような裏返しの理想主義者ではないから、彼の本ほど激しい迫力はないけれども、病理の洞察があまりに鋭いので、シニカルなライターだという印象を受ける。ホッファーはその印象を予想し、次のように書いている。「読者は、おそらく、多くのことが誇張され、多くのことが無視されていると感じるであろう。しかし、本書は、権威主義的な教科書ではない。これは思想の書物であり、たとえ半面の真理にすぎないとしても、それらが新しい方法に暗示を与え、新しい問題を組織的に述べるのを助けるように思われる……」(六九頁)。
 この本で取り上げられている「大衆運動」の範囲は広い。それは原始キリスト教の運動や宗教改革の運動、フランス大革命やロシア革命、ナチズムの運動や明治以降の日本の近代化をめざす運動など、宗教的、政治的、短期的、長期的の多様な運動を包括する概念である。大衆的基礎をもち、「忠実な信者」が参加する限り、すべての運動は「大衆運動」と呼ばれる。「忠実な信者」とは誰か。それは自己に失望し、自己から分離した人間であって、共同行動への参加により、新しい生き甲斐を求めようとする者である。
 それでは、人はどうして自己から分離するのか。集団の一員であるという意識を失った時か(七二頁)、あるいは創造的な仕事や有益な活動ができない時に(六〇頁)、人は自己から分離する。そのような人びとは、大衆運動に献身的に参加することで集団所属意識を取り戻し、理想に殉じていると信ずることで自己軽蔑から免れる。ここで、読者は一つの疑問の中に投げ込まれる。集団所属が「自己との調和」(九五頁)をかちうる一条件であったとすれば、この条件を失った人が運動体に参加することで回復する自信は、本来の「自己との調和」と同質のものなのであろうか。それとも異質的なものなのであろうか。著者はこの問に対して、明確には答えていない。ただ、次のような個所は、この問に暗示的に答えているようである。運動体の「統一は、忠実な信者の相互の兄弟愛から生まれるものではない。忠実な信者が忠誠を捧げるのは、彼の仲間の信者たちではなく全体 ─ 教会や、党や、国家 ─ なのである。個人の間にほんとうに誠実な関係が成り立つのは、ゆるい、そして比較的自由な社会の中だけである」(一三九頁)。集団の二類型を体制と関連させる理論は、このように暗示的、断片的にしか語られていない。そのほか重要な理論の断片が随所に散らばっていて、読者はこの本の中から多くの示唆を受け取るだろう。(高根正昭訳、B6 一九四頁・五三〇円・紀伊國屋書店)


全体への忠誠と、個人間の関係および自己への誠実さとは別物。前者は後者を犠牲にさえしうる。
ある方からE・ホッファーに関する作田氏の記述を見たいというご要望を受け、この書評を探し出したのだが、改めて読むと、これは今まさに、必要な指摘ではないか、と思えた。(粧)


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