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来し方を知らず、何者でもなく、行く先も知らない

自分自身のプレゼンテーションをする時、「われわれはどこから来て、何者で、どこへ行くのか」を明らかにするとよい、と教わったことがある。確かに意識すると筋がよく感じる。ゴーギャンの画題をもじった些かキザな教えだ。

僕の決して長いとはいえない人生には、明瞭な断絶点が存在する。ante-断絶点の僕にとって来し方→行く先ベクトルは予め定義されており、それに沿って自身が何者であるかが遷移していくものだった(これだって後方視的解釈だ)。意味は事前的に規定されていた。

intra-断絶点(穴に落ちてた頃)において、その事前的意味は褶曲され、霧散した。あのころの記憶は今でもよく思い出せない。よく分からないもの、見えないもの、存在しないものに怯えていた。

断絶点からの脱却は、思いのほか突然に現れた。時のせいか薬剤で脳機能が改変されたせいかは定かではない。断絶点の向こう側(post-断絶点)は、茫漠とした一様な世界だった。断絶しているから、どこから来ているかなんて知らない。だから自分が今どこにいて、どこに向かってるかも知らない。世俗的な言い方をすると「拾った人生だし好きに生きよう」となる。

意味は、常に遡及的に現れる。平坦な世界で生きていたって今までの人生の要所の記憶さえ残っていれば適当に再構築できる。post-断絶点の期間においても何回も改変・改竄した「一貫した意味」を生成してプレゼンテーションしてきた。

でもみんなそんなもんで、「事前に設定した意味」通りに生きている人達だって、不断の遡及的かつ同一性を保つような意味づけによって仮想的にそのような現象を構成しているだけに過ぎない。車のテレビCMでホイールの回転数が一定を越えると逆回転しているように見えるのとあまり変わらない。

平坦な内的世界は、文章にも現れる。地に足のつかない書き出しで始まり、時系列の乏しい展開で進み、明後日の方向を向いて終わる。単一の意味による大きなベクトルが存在しないからそうなる。

文章が主にダイアローグで構成されている人は、その内的世界に、常に誰か他者が存在するんだろうなと邪推する。それがその人にとって常に善いことかどうかについては置いておく。

平坦な世界に、色付けをしようと思うほどの気概はもうない。せめて沙漠で珍しく他の旅人に出会ったらそこに石を積んでおくくらいはしてもいいとは思っている。沙漠はあてもなく歩くと円環を巡るとは言うけど、まあそれはそれでいいじゃないか。

これでおしまい。木村敏の概念をもじったのは些かキザだったなと反省している。

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