半径5mの距離感について

先日、友達が死んだ。
突然死んだと言えばそうだし、いずれ来たるべき運命だったと言えばそうなのかもしれない。

人間は、そうでなくても突然死ぬし、理不尽に死んでいく。高度救命救急センターで救急医として働くようになってからまだ短いが、すでにそういう人たちをたくさん見てきた。若いからというのはあまりいいわけにならない。


縁あって、通夜に弔問に行った。うちは両親の家が浄土真宗で南無阿弥陀仏しか唱えていないような弔事ばかりだったから、宗派が違うお坊さんが知らない調声で読経しているのを、結構雰囲気が変わるもんだなあと思いながら、考え事をしていた。

僕は、あの人のために、生前もっと何かできたんじゃないだろうか。あの人にとって僕は友人Bどころか友人273くらいだったと思うのでおこがましい考えかもしれない。この結末が宿命だったとするなら、僕がそれに抗おうとしたって、その力すらなかったかもしれない。

じゃあ、宿命だったとするなら、僕は後悔がないのかというと、そんなこともない。あの人は、自身を伝えようとする気持ちに満ちた人だった。多分、というか間違いなく、僕を含めた周りのひとびとに、もっと伝えたいことがあったに違いない。

それが宿命だったとしても、もっとよく会い、よく話し、あの人の考えていること、言葉にしたことをもっと取り込んでおくべきだった。医者になって「人はすぐ死ぬ」などと警句を晒していい気分になっていたけど、今日まで続いていた人と、人との関係とが明日も続くなんていう無邪気な帰納法に甘えていたのは実は僕の方だった。

以前、別の友人とマイノリティについて話していたときに、「半径5mの人にやさしくする気持ち」が一番大事だなという話をした。今思い返すと、多分恣意的に決めた「5m」という比喩的な距離が大事なんじゃないかと思う。
見えるけど、手を伸ばすだけでは届かない。何歩か詰め寄らないと手が届かない。僕にとって、あの人は、そういう距離だった。

償いというのも変な話だけど、これまで以上に半径5mの人たちと関わり、話し、知っていく生き方をしていきたいなと思う。人間は結局宿命には抗えないから。みんながそうあれば、多分それはあの人にとっても望む世界に近づくんじゃないだろうか。


以前の記事で、「人が死んでも何も思わなくなった」みたいなことを書いた。医療者としての立場だったけど、通夜に参加するときも多分泣かないだろうなと思っていた。

でも、喪主の挨拶のとき、やっぱりちょっと泣いてしまった。僕にも患者Aに対してではなく、生きた、生ききった友人に対しては「喪った」という気持ちを持てることがわかって少し安心した。最後までいろんなことを教えてくれるかけがえのない友人だった。

向こうで、安らかにあることを祈っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?