はなしをふたつ
非日常
非日常が苦手なわたし。
たとえば、友人と一緒に帰り道を歩いたり、家にお客さんが来たり、時間どおりに電車やバスが使えないとき、焦りとも不安ともつかない感情が湧いてくる。うーーってなる。その気持ち悪さというか居心地の悪さがイヤなのです。
これまでわたしは、毎日をどれだけ日常に近づけられるかということを軸に生活していた。大きなできごとを避けた生活はのびのび過ごせる。
でも、
「成長するためには、今いる場所から一歩ずつでも踏み出そう」
そんな言葉をいろいろな場面で聞いた。
だから、ときどきやってくる非日常を乗りこなす人にわたしはなりたい。
日常の中に非日常がぽっとでてきたときに、そこから逃げずに向き合って対処できる人になりたい。
いつも歩かない道を使ってみたり、勇気をふりしぼって人に話しかけるのは小さな小さな一歩かもしれない。でもこのままずっと現状維持でいるのはつまらないし、なによりわたしの憧れる人物像にわたしがなりたい。
多様性
グラデーションのところどころを切り取って細かくカテゴライズされるようになった。その結果、名前のない部分に属すると居心地が悪くなるようになってしまった。
多様性という言葉には多様性を突き放す冷たさがあるような気がする。きっとそれは、言い訳や免罪符に使われる場面があるからなのかもしれない。
主題に対する意見は、常にマジョリティとマイノリティに分かれる。
道徳の授業で「正解はない」と言われて書いた感想は、学級の9割が同じ内容のもので、のこりの1割は真逆のことや突拍子もない内容だった。「正解はない」「全部正解だ」と繰り返すあの時間は毎回奇妙に思えて苦手な授業だった。道徳心に限っては明確な正解を設けたほうがいいのではないだろうか。
それはさておき、マジョリティというのは共通点の多いマイノリティが集まってできた集団ではないかと思う。マイノリティの中でもマジョリティとマイノリティに分かれる。
なんて、最近読んだ小説の感想でした。
区別をしたがる性質を持つわたしのような人間のせいで、多数派や少数派という概念はあやふやになりつつある。でも、それでいいと思う。
話すときやこうして文章を書くとき、「普通」という言葉を使わないようになった。これは人によって「普通」が異なることへの配慮というより、自分のアイデンティティを保つため。
「普通」と言いたいときは、わたしにとってその普通はどんな状況なのかを言語化することで自分自身のグラデーションを知るきっかけになると同時に、相手にも正確にそれを伝えられる。もし多様性と向き合うべきならこういうことから始めるといいかもしれない。