「信じる」ことと「依存する」ことの違いと境目

-あなたは何を「信じて」いるのですかー
-本質的な判断力の育て方-

☆私たちは様々なものを「信じて」います。
☆私たちは様々なものに「依存」しています。

この違い、どう捉えられるでしょうか。そしてどのような感情が想起されるでしょうか。
どちらもネガティブに捉える方もいれば、ポジティブに捉える方もいるのではないでしょうか。

本来、「信じる」ことと「依存する」ことは違います。
〇「信じる」とは、自らと向き合うことで沸き上がる、自他共への想いを、私という存在すべてで請け負っていくということ。
〇「依存する」とは、自らと向き合うことを放棄し、依存元に委ね、コントロールされることを自ら望んでいくこと。

この社会で私たちは、多くの物事を根本から「信じて」生活しています。
◆例えば
・親兄弟が本当の親兄弟だということを「信じて」接している。
・この家は私の家だと「信じて」住んでいる。
・お金が本物だということを「信じて」使用している。

これらには「依存」という観点なく、「自らの判断」によって請け負い対処しています。

ではこちらの「信じる」はいかがでしょうか。
◆例えば
・この薬で病気が治ると「信じて」飲む。
・給料がもらえると「信じて」働く。
・A型の方は真面目だと「信じて」いる。
・知り合いから儲かると言われたことを「信じて」投資する。

これらは純粋に「自らの判断」となりづらい要因も出てきます。
そこに「依存する」ことが入り込む余地ができてくるのです。

自らの判断力の違い。それが「信じる」ことと「依存する」ことの境目。

その判断力は、必ずしも言葉の知識や誰かの教えをうのみにすることで得られるものではありません。すでに“うのみ”自体が依存なのです。

現代社会は「信じる」ように見せかけた「依存」に溢れています。

「依存」は自らの判断力を奪います。
「依存」させる側は、決してあなたの人生を利用はしますが請け負うことはありません。
「依存」しているということは、自分の人生を生きていないということです。

「信じる」判断力は、仏教で「智慧」と言い換えられます。
智慧は三慧「聞思修」によって育っていくものだとされます。

「信じる」判断力は三慧の観点と照らし合わせ説きますと
・聞:外からの情報をうのみにしないこと。
・思:内からの感覚を流れのまま感受していくこと。
・修:自分だけでなくすべての者が安らかで幸せに向かうべく願いや夢を持つこと。
によって育っていくのです。

提唱している禅セラピーは、禅のレクチャーや作法(ワーク)によって、自らの身心に、労わりをもって深く向き合い、「信じる」判断力を深めていく学びであり方法です。

結果として現代社会で生きる私たちに大切な自己受容力、自己肯定力が身につきます。

そして本質的な「信」「受容」「肯定」が深まることで、
私がここにいることの奇跡が自然に感じられ、
自他の境界がぼやけ繋がりの中の自分という観念が自然と湧きあがります。

そこから初めて本質的な敬虔、尊重の意が見据えられていきます。

コロナ禍の今こそ「依存」でなく「信じる」自分になるチャンスなのかもしれません。

それぞれの人生が安らかで幸せでありますように。
そして良縁の連なりによって世界が平和に向かっていきますように。

2021.6.21
zafu代表 藤井隆英 拝

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