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他宗派にて「禅」の仏法を語り「行」ずる意義

ー仏法に基づいた生き方としての「行」ー
ー実利とは違うbosatsu(仏法)視点ー
ー仏教基本論理から「行」を伝えるー
ー僧侶が「行」を披露する注意点ー
11/26.30日。虎ノ門ヒルズのとなり、
真言宗智山派別院 真福寺にて。
宗門教化活動実践セミナー
「阿字観のさらなる充実へむけて~さまざまな瞑想のかたち~」
にて講義させていただきました。
2日間なのは、コロナ禍において密にならないよう例年と比べ1回の定員を半分にしたからだそうです。
真言宗には「阿字観」という瞑想行法があります。特に智山派では一般の方向けに阿字観会を開設するための講座もあるようです。今回「阿字観」と曹洞宗の「坐禅」を体験し、仏教瞑想で寺院を活性化させる方法を学ぶ機会にということで呼んでいただきました。
今回は私の座学とお堂での坐禅体験、その後教化センターによる阿字観体験という流れでした。
○講義は、禅の、坐禅中心な修行の日常作法の意味から始まり、
曹洞宗宗旨に書かれている
◇《坐禅の実践がすなわち身体と心の安らぎ》であることや、
◇《坐禅自体の安らかさの境地を行住坐臥の日常に生かしていく》ことを、
◇《「修証一如」によって安らかさのままで身につけていく》ことが、
禅的な安寧や幸福であること。
それには「行」を誓願・慈悲・智慧・無我という仏法の基本理念を理解した上で行わなければ一時的なメソッドを伝えているだけであり、安寧的生き方を伝えていることではないこと。
その違いがマインドフルネスに例えると「実利」と「bosatsu(仏法)」の違いであること。
実利マインドフルネスに限らず「阿字観」や「坐禅」であっても、僧侶が一時の現世利益を誘導するよう一般に伝えるのは、「戒」を授かっている僧侶として、やってはいけないことであること。
そして仏教の「行」としての瞑想を伝える意義とは何かを、仏教基本論理である八正道や三学・四法印。そして坐禅儀などに基づき伝えさせていただきました。
○お堂での坐禅体験は、「zafuざふ」を用い、坐禅の前に、「禅セラピーワーク」によって身体と心を禅的洞察・自己受容の作法により深くゆるめ、その後曹洞宗坐禅基本作法へと導かせていただきました。
○今、マインドフルネスに限らず仏法的「行」や「作法」「サンガ」等の観点が見直されています。ある種気を引き、実利的メソッドとして一般にカスタマイズされた形にて使用されているものも多くあると見受けられます。
そこにただ「そうでしょう!よく効くんだよ!いいものなんだよ!」とただ同調し流行に乗り披露しているだけの僧侶は、宗教者しては失格だと自戒を込めて思っております。
◇《自らが身につけてきた「修」「行」が、仏法に於いてどのような意味があるのか。》
◇《自分は仏法とどう向き合いながら生きていくのか》
これを僧侶が問い続けず、学んできた者を「ただ要請があるので披露」し「意味合いが違ったものでも考えず受け入れる」ことは、「私は僧侶ではありません」ということを「自ら」でひけらかしているのと同様だと認識しています。
「行」を伝えるに当たっての仏法的観点は、禅宗に限らず日本全ての宗派に際し大切な観点だと認識しております。
禅は「決して日常から離れない、体感から見据えられる仏法的境地を導く智慧の学び」です。今、一般に仏教を浸透していくにあたり、日常視点の禅は大変有用だと認識しています。だからこそ日本全ての宗派にとっても大切な指針になるのではと感じます。
しかし、実利マインドフルネスでの禅や仏法の使われ方のように、ひとつ間違うと、片手落ちな形にて伝わる危惧もあること。
それが広い意味で仏教衰退に向かい、個人の深い安寧や幸福、良好なコミュニティ構築、永遠なる世界平和への道筋から離れていくことにつながっていくのではないかと感じております。
○要するに「お坊さん、一緒に頑張りましょう!!」です。
今までもいくつかの宗派において、禅や坐禅を伝える講義をさせていただきましたが、今回はわざわざ全国から申し込み学びに来ていただいた僧侶向けであり、センターの方も素晴らしく、真言宗智山派の瞑想に際する考え方や行も知れ、大変な学びになりました。
今後も様々な宗派で講義できれば有り難いです。今回書かせていただいた内容でも違うものでもお伝えすることができますので是非お声かけ下さい。
最後に、真言宗智山派教化センターの皆様。真福寺職員の皆様。善き御縁をいただきどうもありがとうございました。
曹洞宗僧侶 zafu代表
藤井隆英[隆法英療禅士] 拝

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