未分化感覚の重要性が増す時代

今、未分化感覚を、より重要なものとして整理し問いはじめています。いわゆる「身体知」的なもの。

来年は、知識的なものと感覚的なものの融合と、より感覚的なものの重要度が増す時代になると予見しております。そのために必要な問いとして。

そこで間違ってはいけないのは、
人や知識より提示されたものをなぞるように学んでいくことで得る感覚は、どこまでいっても本質的なものになり得ないということ。それではいつまでも依存的な「偽感」から脱することはできません。

特に現代科学はエビデンスと知識優位なところがあるので、提示された感覚を信じるという方向にどうしても行ってしまいがちになります。それは自身の本質的感覚とは違うものです。

また、流れゆくものの一瞬一瞬の気づきにラベリングをすることで感覚を高めることも、本質的感覚を得ることではありません。

本質的感覚とは、
感覚を感覚のままで判断なく丸ごと受け止め続けるということ。流れゆくものを流れゆくまま、聡明な自分で詳細に味わい洞察し続けること。得られるということから離れることで結果として得られるもの。

本質的感覚が身につくとは、
自他を未分化のまま深く感じ続ける能力が養われるということ。現在の自・他・社会を見据える能力が高まることでもあり、結果自他を越えた安らかな自分のベースとなるものです。それが仏法でいう自灯明法灯明の営み。この感覚は決して固定化された「神」との交流により手に入れるものではありません。

ちなみに禅ではラベリングはしませんし、禅僧はそれができません。ラベリングは一瞬一瞬を一度固定化してから見据えていくもの。元来禅は固定化を捨てることから始まります。それは一瞬一瞬の流れ自体を自他を越えて包括し、全体を判断なく見守り続けるもの。

坐禅や作法は、固定化に向かわないことで本質の未分化感覚を身につける方法です。本来それは坐禅に限らず仏教各宗派の修行法でも同様です。なぜなら仏法は四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)から構築されたものだからです。*ちなみに本来の「一切皆苦」の意味は「三法印」自体が世界の成り立ちであるという意味。決して「全てが苦悩」という意味ではありません。

仏教の修行法における感覚論理は、実利マインドフルネスやヨガ、仏法によらないヴィパサダナーとは明確に違うものです。

ヨガと仏教の修行法は似ている、もしくはヨガの一部と思われている方もいらっしゃるようですが、元来思想の根本から違うものです。確かに雰囲気や分かりやすい部分の方法の流れとしては似ている部分があるかもしれませんが、感覚論理としては明確に違うものなのです。

身心堂@zafuの禅セラピーワークは、日常に於いて、未分化感覚を高めることで、本質的感覚を身につけ、結果として聡明さや安寧さ健康に向かっていくという、禅・仏法・bosatsuマインドフルネスを源泉にした動的瞑想・身体療法です。

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