語り得るものについても、沈黙しなければならない

2024年4月26日、あるブログサービスの運営から一通のメールが届きました。
曰く、「貴方の書いた記事が名誉毀損にあたるとして削除を請求された。決定権は貴方にあるが拒否するならば請求者によって法的措置が取られる可能性がある」。

私は運営にいくつか問い合わせをしましたが、有意な回答は得られず。
「削除ではなく編集でも問題ないか」との質問にも回答がなかったため、大事を取って削除することとしました。
あの記事を評価してくださった約700人もの方々に申し訳ない気持ちもありますし、請求が正当なものとも思ってはいませんが、現実の生活を脅かされるリスクには代えられません。

本件についてお話する前に予防線を張らせていただきますが、本記事を根拠に特定の誰かを批判することは控えていただきたいのです。(私を除いて、です。私は妥当な意見に対して訴訟を起こしたりはしません)
本記事を読んだ方の発言について私は一切の責任を負いかねます。
ですから、ここではどのサービスのどの記事に対して誰から削除請求が来たのか、という点には触れません。
実際誰が請求したかは書かれてませんでしたし。
こうもはっきりと断りを入れなければならない理由は、もうお察しいただいているかと思います。

私がどこかのサービスで書いた何らかの記事に、何者かから運営を通して削除請求が届いた。
これはそういう解像度の話です。
この記事は誰を批判するでもなく、どの主張を否定するものでもない。私が置かれた状況そのものへの私見だと考えてください。
そして、私が以前行ったある呼びかけを撤回する記事でもあります。

さて、ここからはどのような理由で削除を請求されたのか、という話をしていきますが、ここで挙げる文章は何らかの書状から引用したものではありません。
モデルにした文章はありますが、原文と意味の近い単語に変換しています。
そのため、ここからの話はフィクションです。

まずは、「削除を請求する記事がどういったものであったか」についての請求者からの主張。

事実に反する侮辱が行われている。 請求者に対し「筆者はあらゆる██████に対する加害者です」とし、道徳観や思考力を貶める記述がされた。

出典なし

続いて、「どのような被害を被ったか」についての請求者の主張。

侮辱により名誉感情の毀損が行われた。記事の内容が、ソーシャルネットワーキングサービスにおいて中傷や自殺教唆の扇動となっている。侮辱する投稿が多くの同意を受け、請求者は精神的苦痛を受けた。

出典なし

頭痛を催すと同時に、慣れ親しんだ懐かしさすら感じる論理です。
フィクションですが。

私は、確かにその記事においてある主張を批判しました。
しかしその主張を行ったに関して「道徳観がおかしい」とか「思考力に問題がある」などと述べてはいません。
あくまでその主張の事実に反している点を指摘し、あるいは主張とその人自身が表明したスタンスとの矛盾点を指摘しただけです。
それを侮辱と呼ぶならば、どんな主張に対しても反論することが不可能になってしまいます。

さらに、「中傷や自殺教唆の扇動となっている」とされる記事において、私は「差別主義者と呼んだり人格を否定するだけでは本当に相手を被害者にしてしまう、故に「冷静かつ論理的に主張しろ」と述べました。
読者の皆様は、これを中傷や自殺教唆の扇動だと感じますか?
感性は人それぞれですが、書いた者の立場から言わせていただけば、あの記事はむしろ、それを諌めるために書いたのです。最低でもそれくらいは理解されるものと期待していました。
それがひとつの動機であることを、私は明確に記述したはずです。

記事を読んだ方からは「この気持ちが共有できることに感謝しかない」という言葉をいただきました。
同じ言葉がある人を傷つけ、けれど別の人の傷を癒す。当然に有り得ることです。私が批判した記事だって、私を含む多くの人を傷つけた一方で、少なからぬ人が溜飲を下げたのでしょう。
つけた傷と癒した傷を比べることなどできるはずもない。だからこそ、議論の本質的な価値は傷つけた人の数でも癒した人の数でもなく、その論理的な妥当さで測るべき

私はそう思っていました。
けれど、そうではないらしい。

私はあの記事を、著者の名誉を毀損するためではなく、その主張を論理的に否定するために書きました。仮にその目的通りの記事だったのならば、責められる謂れは無いはず。
そして記事は多くの人から好意的な評価をいただきました。
丁寧だと。
論理的だと。
公正だと。
偏りがないと。
評価が正しいかはともかく、そう考える人がいることは確かでした。

しかしその記事は一切の反論なく「名誉毀損」のレッテルを貼られ、「削除せよ、さもなければ法的措置も辞さない」と喉元に刃を突きつけられている。

それが意味するのは、誹謗中傷にはすまいという私の指針も、公正だと評価してくれた方々の価値観も、一切意味を持たなかったという事実。

かつて私は「誹謗中傷をするな、正しく主張しろ」と述べました。
私が「正しい」と考えたその文章は、どうやらある価値観にとっては裁きの庭で晒し上げられるべきものだったようです。
その文章を「正しい」と感じた人がいるならば、その方々が「正しい」と信じて発する言葉も同じであるはず。
だから、私はもう「誹謗中傷をするな」とは言いません。皆さんに頼み勧められることは、ひとつだけです。

何も言うな。

誹謗中傷だけじゃありません。ここで述べている請求者に見当がついたとしても、一切言及してはいけません。
その人の取る行動に対しても、その人がこれまで行った主張にも、これから行う主張に対してもです。
それがどんな発言であろうとも、訴訟のリスクがあります。
裁判という勝とうと負けようと出血を強いられる場に引きずり出されないようにするためには、それしかありません。

私達が正しくあろうとすることに最早意味はなく、等しく口を噤むしかない。
私達は、何も言ってはいけない。
好きなものに向けられる悪罵を不公平だと感じても。
目に入った行いが間違っていると感じても。
何も言ってはいけない。
どんな主張に対しても、
どんな行いに対しても。
私達がどれだけ正しいと信じていても、彼らにとっては議論の必要すらなく「名誉毀損」とみなして訴訟をちらつかせ、一方的に擦り潰せばいいだけの言葉なのだから。
私達が好きなものを擁護する言葉には、今やそれほどのリスクが伴っています。

匿名性を限界まで高めたこの記事でさえ、削除請求を受けるかもしれません。
その時は一言のご報告もなくこの記事を削除すると、先んじてお断りしておきます。

「あの作品を観たことがない人の目に、一方の意見だけが入ることがないようにする」。
「誹謗中傷をしないように呼びかける」。

私があの記事にかけた望みは、事ここに至ってどちらも粉々に砕かれました。

一方の意見は検討すらされずに排除され、「冷静に、論理的に」という心掛けには一切の価値がない。
そして、新たなファンの土壌には「この作品のヒロインは嫌われ者」と書かれた看板だけが立てられる。

きっとこれが、誰かがこのファンコミュニティに望んだ形なのでしょう。

2024-4-30追記:
再投稿の予定に関する記述を削除。すまん、疲れちった

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