【荻上チキ・Session 文字起こし】小山田圭吾氏の過去のいじめ加害問題について荻上チキがコメント【2021.7.19放送 Daily News Session】

当記事の文字起こし内容の著作権はTBSラジオに帰属します。
なお音源は各ポッドキャストにてアーカイブ視聴が可能です。

(以下書き起こし)

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(南部)
「加藤官房長官、小山田圭吾氏のいじめ問題巡って組織委員会に対応促す」

オリンピックの開会式で楽曲制作を担当する小山田圭吾氏が学生時代に障害のある生徒等をいじめていた問題で、加藤官房長官は今日「発言の詳細は承知していないが、障害の有無に関わらずいじめや虐待はあってはならない行為。許されるものではない」と述べた上で、組織委員会に対応を促しました。

コーネリアス名義で音楽活動をする小山田圭吾氏は、オリンピックでの楽曲担当が発表された後、1994年発行のロッキングオンジャパンと95年発行のクイックジャパンのインタビューで学生時代に障害のある生徒等をいじめていたと、露悪的に語っていたことが問題視され、SNSを中心に大きな批判が寄せられていました。

これを受け、小山田氏は謝罪する文章を発表。大会組織委員会も辞任や解任はしない方針をそれぞれ発表。海外メディアでも大きく報道されています。


(荻上)
はい。この小山田圭吾氏が過去に行っていた、いじめに関する露悪的な発信。

あの1回のインタビューでポロッと答えたということではなくて、複数回のインタビューで詳細にそのいじめの中身を語って、しかも悪びれる様子がないというような様子というのは、これはあの、Web上でもね、20年以上前から度々話題とはなっていたわけです。

そうしたようなことがずうっと棚上げされたまま今回オリンピック・パラリンピックで楽曲提供するという風になった際に、この名前が出てきたことに対して、これは明らかにちょっとミスマッチだろう、と言うような非難がさらに盛り上がり、また今回のその報道などによって、その出来事、そういった発言を過去にしていたということを初めて知ったという方も多くいると思うんですよね。90年代の音楽などにこう触れている人などにとっては、コーネリアス小山田圭吾氏というのは、とてもあの馴染みのあるミュージシャンだと思うんですけれども。


(南部)
はい、はい。


(荻上)
でも日本全体でどれだけの認知度かと言うと、それは少し分からない所があるので、むしろ今回の件で小山田氏を初めて知った人にしてみれば、あのオリンピックなどに楽曲提供していた、しようとしていたけれども過去にとんでもないあの犯罪的な差別を行っていた人物だった、という情報だけを与えられると、当然ながら「いやそんな人物不適格でしょ」ってことになるのはこれまた当然ということに、なりますよね。

この件っていうのは、過去にじゃ行っていたいじめ加害が発覚した場合に、その人の仕事までキャンセルする必要があるのか、と言うような問題として理解される向きも一部あるんですけど、その問題とこの問題は別だと思うんですよね。

今回のは、過去のいじめ加害というのが何かのきっかけで発覚した事案ではないんです。そうではなくて、小山田圭吾氏が繰り返し過去のインタビューの中で、攻撃的・露悪的な仕方で、いじめの手法というものを赤裸々に語っていた。それを読んだ人達に対して当然不快感も与えるかもしれないけれども、それを一つのエンターテイメントとして味わってほしいというか読んでほしい、というような文脈でその内容を提供している、ということになるわけですよね。そうするといじめとか差別というのをむしろ軽視するような発信というものを、アーティストになってから行なっていた問題、ということがここに関わってくるわけです。

で、過去のいじめ加害という点で言うと、国立教育政策研究所のデータなどだと、小学校から中学校の間に、その、いじめ加害を行っていない児童というのは1割程度しかいないんですね。やはり誰かしら、何かしらのタイミングで誰かに否定的なあだ名を呼びかけたりとか、誰かを無視したりとか、誰かを叩いたりとか、そうしたことを一定期間行うということはしてしまうところがある。

ただそれが持続的にどこまで行うのか、何年間も行い続けるのか、ずうっと行うポジションにいるのか、ということでいうとどんどん数が絞られていって、“継続的な加害者“というふうになっていくという人はその中でもまた一部にこうなっていく、っていう状況があるわけですね。

ところがこの小山田氏の様々な発言というのは、いじめの文脈というものを越えた性暴力でもあるし、障害者差別でもあるしという、いろんな問題をこう含んでいるわけです。

インタビューの中でも紹介されている加害行為というのは、あの先ほどね、たまむすびの中でも少し紹介されていましたけれども、例えば人前でマスタベーションすることを強要するとか、あるいはその女子たちが見ている中でわざと服を脱がして人前を歩かせる、であるとか。あるいはあの、ぐるぐる巻きにしてバックドロップをしたり、あるいはあの、大便を食べさせたりとか、そうしたようなことを繰り返していたんだということを言っていたわけです。

また他にも様々なダウン症の児童などに対する侮蔑的な発言というものを仲間内で繰り返していたことなど、いろんなことがこう、自ら発信されてるんですね。しかもそれがインタビューの中だと『(笑)〔かっこわらい〕』とか、そうしたような文言を用いて、非常にこう露悪的な仕方で発信されていた、ということになるわけなんですね。

こういったような事態というものは、このインタビュー読んだ人たちに対して、大変なストレスを与えることには当然なるわけですね。で、なぜこれがストレスなのかということも改めて振り返っておきたいと思うんですけど。

あの、僕、たまに紹介する概念で、「公正世界信念」という概念があります。「公正世界仮説」という風に呼ばれることもあります。

これはどういうことかって言うと、“この社会というのは正しいことをすれば報われるんだ“ っていうような考え方。これが公正世界信念ですね。”この世界は公正にできていて、人々が適切に振る舞えば世界はそれに応えてくれる”という一つの信念というものがあって、多くの人達はこれを内面化しているんですね。内面化するからこそ、“努力は報われる。だから頑張ろう”っていうふうにモチベーションを維持することができる。動機付けを保つことができるわけです。

逆に言えば、“正しくないことをすれば懲罰を受けるよ”っていうような考え方でもあるので、これがまた、“社会に逸脱をするのではなくて適応しよう“というモチベーションに繋がるというところがあるわけです。

良くも悪くもこういった信念を持ってる人というのはとても多いんだけれども、ただこういったような信念が揺らぐような悪いニュースというのがしばしば飛び交って来るわけですね。そうすると、「あれ?今起きた事件って、この公正世界信念を揺るがしてしまうじゃないか?」 誰かが例えばいじめられていた、誰かが性暴力を受けた、そうしたようなバッドニュースが入って来たときに、人はとっても不安感を抱くわけです。その不安感は、要は“もしかしたら自分も努力しても報われないこともあるかもしれないし、気をつけていても被害にあうかもしれない“、っていうことになると、すごいストレスになるんですよね。


(南部)
脅かされますものね…。


(荻上)
そうなんです。で、そういう時に取られがちな手段が二つありまして、そのうちの一つというのが被害者非難、なんです。被害者が悪い、というふうに言うんです。


(南部)
あー……。はい。


(荻上)
どういうことかというと、これは公正世界信念が揺らいだのではないと。世界は変わらず公正だと。 だけれども、あの被害者に落ち度があったから、あの被害者は適切に努力してなかったからそうした目にあったんだ。つまり、過去に正しくないことをしていなかったからその懲罰として被害にあっただけなんですよ、っていう風に矮小化をする。

こういったような仕方で、例えば貧困当事者を叩いたり、被災した方を叩いたり、性暴力の被害に合った方を叩いたり、というようなことで、むしろ弱者を叩くっていう方向で解消しようとしてしまうというのも、この公正世界信念がもたらす現象なんですね。

でも同じく公正世界信念が揺らぎそうになった時に起きがちな方略のもう一つが、加害者に対するバッシング、加害者に対する過剰な懲罰や悪魔化、ということになるわけなんです。

要は加害者に対して因果応報というものをもたらしたい、因果応報をもたらすことによって、このモヤモヤした感覚を何とか治めたい、というふうに感じるものなんですね。

で、この感覚そのものはとても重要ではあるんだけれども、場合によっては「加害者はまだ謝ってないじゃないか」「加害者はきっともっとろくでもないやつだ」ということで、悪魔のような存在として描かれるようなことがあったりする。そうなると、どう対処をしても、この信念が回復されない、ということになってしまうわけです。加害者がどれだけ謝罪しても、なかなか対処が困難だということもなり得るわけですね。

一般的にこうした公正世界信念というのは、人々にとても重要な動機付けを与えるし、社会に適応しようという努力を与えるものではあるけれども、しばしばそれがコントロール不能な攻撃に向かうような側面というものも当然あるわけです。

ただ、こうしたようなその被害者非難と加害者非難がじゃ全部悪いのかと言うと、そう単純に語れないというところもあるんですね。加害者非難などについて通じることによって一定の抑止効果とか言うのを社会に拡散したいという人もいるでしょう。いろんな動機がそこにあるわけなんです。

では今回の件についてはどうなのかって言うと、明らかにやっぱり小山田氏が発言していたことが明らかになったら大変多くの人達が不愉快に思うし、また、非常にこの世界が不公正だ、っていう絶望感を味わうことになる。だから、何かしらの仕方で公正さを回復したいと思う。ここまでは、もう多くの人たちが望むところだと思うんです。で、その回復の手段がどうすればいいかというと、今回のようなケースって、回復の手段がほとんど難しいんですね。

例えば既に被害を受けていた人、当事者がいて、その人はその後いろんな、例えば後遺症とか様々なものを味わって生きてきたかもしれない。それを、例えば今更謝罪したからといって回復できるとは限らない。つまり、加害者が被害者に謝罪をすればそれで収まるような案件ではどうもなさそうだ、ということも分かっている。

一方、社会的に対してこの不公正があったことについて、あるいは不公正があるということを、アーティストとして発信したことについて、謝罪をすればそれで収まるのかというと、きっとそれはなかなか収まらないでしょう。で、少なくともパラスポーツとかオリンピックなどのテーマソングを書くという役割は適任ではない、ということは言えると思うんですね。で、一方で別に小山田圭吾氏に今後ミュージシャンとして二度と活動するな、みたいなことを言ってるわけではない。


(南部)
うん。


(荻上)
そこは、今後どういう風にやっていくのかは、今後小山田氏のふるまいとか応答責任を通じて、多くの人たちが「なる程そういうんだったら」という風に、安全感覚を取り戻せるかどうかにかかっている。

だから今回のペライチで出した謝罪文で多くの人達が納得できると言う訳では当然無い訳なので、今後の様々な発信において、その問題にどう取り組んでいくのか、どう向き合っていくのか、その姿勢を見せ続けることによって人々の加害者非難でも被害者非難でもない、ある種の”修復的公正”というんですけど。公正感覚がこう、修正されていくというか、取り戻されている感覚というものを、一人の発信者としてもたらすことができるかどうか。これが小山田氏に問われてるポイントの一つになるわけなんですよね。

で、これはとても難しいことではあるんだけれども、やはりアーティストとしていじめ加害の手法などについて露悪的に語って、それが障害者差別などをさらに助長して、なおかつ多くのいじめ被害者に対しても二次加害をインタビューを通じて行ったという点について、同じアーティストとしてどういう風にその後自分で責任を取るのか、ということはこれからも出てくると思うんです。

だからあの、今回テーマソングを作るか作らないか。これは作らない方がいいと思います。そしてその仕事は降りた方がいいでしょうと。ただその後二度と活動するなという話ではなくて、それに対して活動者としてどういう風に向き合って行くのかということを多くの人達は見ていきますよ、と言うことに応答責任というのが出てくる、ということになるわけですね。
これ、やってはいけないのは…あの見ている側もね。あの…”防衛的帰属”という言葉があるんですけど。


(南部)
はい。


(荻上)
何かの問題をどこに帰属させるか、どこに責任の所在を置くか、っていうのがその人達の考える倫理観とか道徳観とかとは別に、その人の考える将来の損得で左右されるところがあるんです。

例えば今回、小山田氏を擁護してる人もいるんですね。例えば「そんな過去の話」とか「その当時はいじめをそういう風に露悪的に語るのが当然だったんだ」みたいな仕方で擁護する人たちがいる。で、それを見ると結構典型的な防衛的帰属だなって思う訳ですよ。

どういうことかというと、彼が悪いことになると自分も悪いことにさせられてしまう可能性がある。だから、彼が悪くないって言うことによって、自分が叩かれるリスクを下げたい。つまり自分を防衛するために責任の所在を、彼ではない、ここではない、そこではない、っていう風に位置付けたがる、ということなんですよね。


(南部)
ふーむ……。


(荻上)
そういうふうにどこに責任を帰属させるのかっていうこと自体が、人々にとって損得を左右されるような問題になってるわけです。だからネット上などでも、実はその小山田氏のその あり方というものを擁護する行為と言うのもまぁしばしばあって、そうしたような形を見ると、多分その自分の例えばメディアの振る舞いとか90年代の表現とか、色んなものまで掘り返されると問題だな、っていう風に思われると、まぁいろいろ発表がしにくくなるとか、そうしたようなことが場合によっては関わってくる可能性もあるわけですよね。

でもそういうような防衛的帰属を繰り返していると、結局今回どうすればいいのかっていう議論が前に進まないことになるんですよ。そして、「自分が叩かれたくないからこの人は擁護しとこう」みたいな損得勘定で議論されてしまうと、じゃあ結局、被害感情にはどうすればいいの?とか、こういったことを再発しないためにどうすればいいの?っていう議論が出てこないことになるんですね。

ちょっとあの、遠回りした言い方になりましたけれども、今回インタビューによって、やっぱり多くの人達が非常に不公正な社会だって言うような感覚を突き付けられた。それに対してなんとか回復したいっていう強烈な動機に突き動かされているっていう状況がある。それをやったのは、何かの暴露とかではなくて、ミュージシャン本人のインタビューの中での発言だったから、それはミュージシャン本人としては今後の発信などでどう応答するのかということは当然問われてくるだろうと。で、それが当然行われていない現段階においては、このオリパラのテーマソングを受けることというのは不適格だというふうに、当然判断されることにはなるだろうと思うわけですね。

ではその後どうするのか。これ一朝一夕に本人が反省しましたって言って何とかする話ではないでしょうし、反省云々ということをするためには基礎知識とか色んなものが必要になりますよね。どう誤っていたのかを言語化できないと応答はできないということになるので。


(南部)
その通りですね。うーん……


(荻上)
なので、あの今回のその本人のメッセージ云々で、おそらくなかなか納得しがたいようなところというのがある中で、どうそれに向き合っていくのか。ということが、問われていくのかなぁ、と言う風には思います。

なのでこう、色々なものをこう、浮き彫りにした一件でもありますよね。80年代や90年代、当時というのは、特にいじめ対策というものは今より脆弱でした。


(南部)
はい。


(荻上)
今は随分といじめ対策で、科学的に何が必要なのかということも、分かってきました。今回あの、多くのメディアがこのいじめ問題を取り扱うのであれば、やはりいじめ対策として今どういった知見がより重要で、よりどういった教育こそが必要なのかという話も、色々な現場に拡げていって欲しいな、と思います。

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(書き起こし終わり)

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