愛、幻想、そして

私は、松永天馬という人間について何一つ知らない。

名前も顔も、彼が「アーバンギャルド」というバンドでリーダー兼ヴォーカルをやっていることも、彼の紡ぐ歌詞が繊細ながら鋭利なナイフのようにしなやかな輝きを持っていることだって、
私はすべて知っているふりをしているだけで、何も知らない。

すべては「アーバンギャルド」という世界で松永天馬が作ったシナリオであり、そんな世界に魅せられた者が見た幻想だ。

松永天馬が率いるバンド・アーバンギャルド初の自伝「水玉自伝」は、ヴォーカルである浜崎容子と松永天馬に数回にわたって行われたロングインタビューを書き起こした文章と、おおくぼけいによるエッセイという構成だ。
この本には、アーバンギャルドというバンドの成功体験や挫折、苦難などの歴史のみならず、メンバー自身の生い立ちについても記されている。

そこに記された文章は、メンバーそれぞれの個性が遺憾なく発揮されていた。

浜崎容子は、一見華麗に思える日々を悶々と暮らしていた過去を赤裸々に語った。
おおくぼけいは、一癖も二癖もある文体で、ラフに人生を語る。
松永天馬は、気取っていながらも冷静な文章だった。そして、全体的になめらかに整えられている印象を受けた。具体的に言うなら、話し言葉を書き言葉に直し、オブラートに包んだ言葉に変換したような。
彼が自身のインタビューを修整するのには、彼の自意識や、パブリックイメージへの観念が関係しているのではないだろうか。

松永天馬は、"松永天馬"の持つイメージを強く意識しているように思う。
見た目で言うならば、ぱつんと顎のラインで切り揃えられたボブヘアー、大きな瞳を額縁のように飾る眼鏡、かっちりとしたスーツ。
職業は松永天馬。松永天馬は"松永天馬"をやることが生業である。
言動はナルシズム的。そして嘘つき。少女とサブカルチャーに愛憎めいた感情を持ち、口を開けばマシンガンのように語り出す。ある時は気持ち悪い男を演じ、ある時はアイドルのように愛嬌を振りまく偶像になってみせる…

一方、松永天馬がバンドの傍らで行っているソロ活動を見ると、これらのイメージは必ずしも松永天馬のすべてではないことが分かる。
ソロ活動で見せる松永天馬像は、骨太でゴツゴツしていて、それでいて人間的な弱さがあり、絶望や深い悲しみさえ感じさせる。

同時に、ソロ活動によって松永天馬は、アーバンギャルドのヴォーカルとして歌い続ける限り自身についてまわるイメージを「背負って」ステージに上がっていることを種明かしする。まるで、自分の本心をひとつひとつ明らかにするかのように。

ではなぜ彼は、アーバンギャルドにおいて、自身のイメージを背負い続けるのだろうか。
過度な神聖視がかえって相手の人間らしさを奪ってしまうように、行き過ぎた好意はまさしく暴力ではないか。それを知っていながら、「僕は神様じゃないよ」と歌っていながら、なぜファンから神聖視されるキャラクターを背負っていられるのだろうか。

これは何も知らない人間のくだらない想像であるということを前置きした上で綴るが、彼は、どこかでファンを『救いたい』と考えているのではないか。
ゆえに、彼は今日まで「アーバンギャルドの松永天馬」という十字架を背負ってきたのではないかと考察する。

ファンにとってアーバンギャルドの松永天馬は"神様"であり、"神様"を信じることで救われたような錯覚に陥った。
"神様"は、自身を信じる者を赦し十字架にかけられることで、自身をも赦すことができたのかもしれない。

松永天馬は自分の発言を嘘だと言いながら、真剣な顔で「アーバンギャルド」という世界のシナリオを説いた。
彼が嘘をつくのは、嘘を嘘だとするのは、それが「真実」であるとしてしまうとあまりにも痛切に感じられてしまうからではないだろうか。

それは自分の真意を隠しつつ伝えるための、言うなればすこしずるい手段かもしれないが、
そんな嘘を今夜だけは信じてみたっていいのではないだろうか。

私は、松永天馬という人間について何一つ知らない。

名前も顔も、彼が「アーバンギャルド」というバンドでリーダー兼ヴォーカルをやっていることも、彼の紡ぐ歌詞が繊細ながら鋭利なナイフのようにしなやかな輝きを持っていることも、そして彼が嘘つきの神様であることだって、
私はすべて知っているふりをしているだけで、何も知らない。

すべては「アーバンギャルド」という世界で松永天馬が作ったシナリオであり、そんな世界に魅せられた者が見た幻想だ。

そんなことはわかっている。
しかし、私は彼のつく嘘に、まだ騙されていたいと思う。

この嘘が、愛と幻想にまみれた地獄だったとしても。

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