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第三話 強い人弱い人 前編


水見市日野美町。
水見市唯一の駅があるこの小さな町は、近隣都市のベッドタウンとしての機能を果たしてきました。私の実家もここ日野美町にあります。
日野美町商店街に古くからあるお総菜屋さん。名物はひとつ80円のコロッケ。多い日には一日で500個のコロッケが飛ぶように売れます。

「ハイどうぞどうぞコロッケ今あがりましたよー。ハイハイ何個包みましょ?6個ね。奥さん6個買うなら10個買ったほうがお得やで?5個で300円10個で500円やからね。そうそう今日あんた特売日やないの。そうそうあんたホラ徳重さんとこのお肉屋さんあるやろ?あそこ今日めっちゃ安いで。あたしもな、実はもう買うてきてん。豚バラよ豚バラ。見てん、ホラこれ、凄ないこれ。いくらやと思う?びっくりすんでほんま、あんたコレ、2kgで1500円なんよ信じられへんやろ」

商品を売っている時間よりもおしゃべりをしている時間のほうが長いんじゃないかと、みんなから親しみを込めてそう言われているこのおばちゃんが私の母。
今は少しふくよかな姿をしていますけれど、学生時代はレスリングのオリンピック候補生にまでなったバリバリの体育会系。母の高速タックルはレスリング界のメダルへの期待を背負いうるものだったそうです。
当時の新聞記事にはこう書かれていました。

工藤希実枝(24)の高速タックルを躱せる選手は世界を見渡してもまずいないだろう。多くの対戦相手は彼女がいつ踏み込んできたのかすら見えないと語る。
だからこそ、メダル確実だと目されていた彼女の今回の決断を、我々はまだ受け止めきれないでいる。 多くの国民から批判の声があがったのも致し方ない事なのかもしれない。

©水見新聞

母はある日突然引退宣言をし、レスリング業界から去りました。

理由は、恋。

「一目ぼれやってん。ええ男やろパパ」
母はオリンピックへの道をあっさりと捨てて、父との結婚を選んだのです。
父はその時の事を少し恥ずかしそうにこう語ります。
「母さんはホラ。言ってもアレな人だからね。父さんも随分説得したんだけどね。もったいないよって。ただまあ、うん。まあ、その。父さんもホラ。まあ、そういうとこも含めて、まあ、そのあれだよね。うん、可愛いなと思ってたしね」
母の猛タックルのせいなのか、父もまんざらでもなかったからなのか。
出会って数か月で結婚。翌年には私が生まれたそうです。

多くの人から期待され、その期待を裏切る形での結婚。
それは祝福よりも批判の声が多く、父のもとへも何度か週刊誌の記者が来たそうです。
私はある時母に質問をしました。
「ねえお母さん。みんなに叩かれた時どう思ってたの?」
すると母は首をかしげながらこう答えました。
「叩かれてたん私?全然イタないよ?言葉の暴力ゆうけどなあんた、私は死ぬ気でレスリングやってきたんやで?毎日吐くまで走ってな。スパーリングの最中に意識失うなんてザラやであんた。疲労骨折なんて日常茶飯事や。五体満足で試合に臨んだ事なんて一度もない。毎試合毎試合、もう無理や、私死ぬかもしれへんって思いながら戦うんや。
あんたな。あんたも何でもええから全力でやり。
人生かけて、なりふり構わず全力で生き。
したら周りの雑音なんて聞こえへんねん。聞いとる暇ないねん。
恋しとる暇はあったけどな」
母はそう言って豪快に笑っていました。
いつも明るくておしゃべりな母しかしらない私にとって、選手時代の母の姿は知らないのだけれど。

母の現役時代のような闘志あふれる姿を、私は今から見ることになるのです。

「今日という今日はあんた許さへんでほんまに」
怒りの形相で仁王立ちする母の前で正座する私とおじさん。
「由紀恵も由紀恵や。このおっさんとつるんだらアカンよてゆうてきたやろ?」
そう言われておじさんは頭を搔きました。
「頭掻いとる場合かあんた!由紀恵にあんたの趣味押し付けたら容赦せえへんゆうてきたやんな?子供の頃からあんた、何がこの子には才能がある、やねんどつきまわしたろかホンマに」
大人が大人にこんなにも激しく叱られているところを初めて見た私は、そのような場合ではないのだけれど、笑いを堪えるので精いっぱいでした。
ただ気になるのは「この子には才能がある」とおじさんが言っていたらしいという事。
私の才能。それはあの不思議な体験にまつわる事だろうなと。
そう理解する事と納得する事とはまた別の話で。
そして生じる当然の疑問。
「ねえお母さん。お母さん、ああいう事、知ってたの?」
「何やねんああいう事て」
「だから、何て言えばいいんだろう」
するとおじさんが下を向いたままこう言いました。
「辺獄に関しておばさんは詳しくは知らないよ。心霊現象とか宇宙人の話とか、そのようなものだという認識でしかない。むしろキミのお父さん、羽田家と辺獄に関しては、少なからず関係があるんだけどね」
「うるさいねんあんた!ぺちゃくちゃぺちゃくちゃと!なんやねん辺獄て。お化けやろ?お化けの話やろそんなもん。私な、お化け大ッ嫌いやねん!」
「ちょっと待っておじさん、お父さんも何か関係があるの?」
父は真面目で優しくて、平凡を絵に描いたような人。そんな父が私は大好きなのだけれど。
おじさんが何か言おうとするところを見て母が慌てて遮ってきました。
「あかんあかん!もうその話はしまい!おしまいや!とにかくおっさん!これ以上由紀恵に何か吹き込んだらあんた容赦せえへんからな!由紀恵もやで!はよ部屋で勉強しい!」
母はそう言ってパートへと出かけて行きました。「もうなんやねんホンマに」そうぶつぶつと言いながら。

私はあの日。爆ぜる者と呼ばれる怪異と遭遇したあの日から、沸々と静かに揺らめく灯篭の灯りのような、静かでそれでいて確信めいた疑問をずっと抱いていました。
その答えは決して知るべきではない、そんな不安もありました。
知ってしまったらもう、本当に後戻りはできない。
そんな予感があったのです。
でも、それでも私はその質問の答えを求める事にしたのです。何故かはわかりません。その理由すら、この質問の答えの先にあるのかも知れません。
「おじさん、聞いていい?」
「おばさんに怒られない程度の話なら何でも答えるよ」
多分それは嘘。おじさんはきっと何でも答えてくれる。
「爆ぜる者が現れた事ってさ、千夏の事も色々あるけれど、あれって偶然起こった事なの?さっきも母さんが言ってた。おじさん、私が子供の頃に才能があるって。何の才能なの?辺獄の話と何か関係があるのね?」
おじさんは少し嬉しそうでした。
それはまるで、長年大切にしてきた宝物を友達に披露する時の少年のような。私の頭の中でのおじさんは「どうだすげえだろ!誰にも見せたことないんだぜ?母ちゃんに見せたら早く捨てなさいって言うんだ。だからずっと隠してたんだ。な?すげえだろ?ピカピカしてんだろ?」そういってピカピカの泥団子を私に見せてくる少年の姿をしています。
実際のおじさんはヨレヨレのシャツにヨレヨレのサルエルパンツを履いた四十過ぎの冴えない男性なのだけれど。
冴えないおじさんは嬉しそうにこう言いました。
「よし!詳しい話はやはり僕ではなくて、お父さんにしてもらう事にしよう」
父の名は羽田良晴。水見市で一番大きな自動車部品の加工工場で働いています。
温和で優しくて極々平凡な、どこにでもいるような普通のサラリーマン。

そのはずでした。


おじさんの知り合いという人はみな少し変わっているのかな、そう思わせるには充分な風貌の喫茶店のマスターが、マンデリンという珈琲を煎れてくれました。
少し酸味があって温度変化で風味が変わる。そんな珈琲だそうです。
喫茶ねこのめ。
日野美町の駅前にある商店街。駅を挟んでその反対側にある旧商店街跡。今では寂れて人通りはほとんどありません。その一角に喫茶ねこのめはありました。
マスターは昔流行った漫画のキャラクターが大好きだそうで、そのキャラクターを真似た格好をしています。
スキンヘッドに口ひげにサングラス。洋風のおしゃれな店内には決してそぐわないミリタリーファッション。カウンターの中、美しささえあるその所作で珈琲を煎れるスキンヘッドの軍人。
初めて来店した人は私を含め「え?これどうゆう状況?」と混乱すること間違いなしなのです。

マスターの煎れた美味しい珈琲を前にして、誰も口火を切る事ができないでいます。
おかしな沈黙が続き、最初に話し始めたのは、父でした。

「いつかこういう日が来るんじゃないかと。いやな予感が的中してしまったようだね」
父は私のほうは見ずに、少し残念そうに言いました。
「お父さん、私ね、私が最近遭遇したものについて、私自身よくわからないの。何を見たのか、何を聴いたのか、それをうまく説明できないのよ」
「そうだろうね。それでいいんだよ、いやそのほうがいいんだ」
父はやはり母と同じように、この話についてはあまり話したくはないようでした。
「よっさん。もう無理だよそれは。いずれ由紀恵ちゃんは辺獄の住人に出会ってしまうよ。その時何も知らない状況でいいのか、よっさん。由紀恵ちゃんの安全の事も考えれば、もうそういう時期なんだよ。それに僕はね、それ以上の嫌な予感がするんだ」
父はおじさんの言葉を聞きながら、ずっと唇を嚙みしめていました。
私の安全?どういう事なのか。
私が父に話しかけようとした時、父はまっすぐと私のほうを見て、羽田家の話をしてくれたのです。

1958年。
オランダから五隻の船団が日本を目指した。
しかし太平洋において悪魔的な悪天候に見舞われそのほとんどが沈没する。
オランダは旗艦ホープ号を救助に向かわせたが、結果的に日本に到達した時の生存者はわずか24名。その後重傷者等が日本で命を落とし、最終的に生存者数は14名となった。
時の徳川幕府は彼らの帰国を何故か妨害し、一人も帰国できずに日本で暮らす事になったという。
その理由については定かになってはいない。

「何故日本人が!?いや、それよりも何処から乗り込んできたのだ!?」
ホープ号船長であったヤコブは、屍となった乗組員の中心に立つ不気味な日本人に戦慄を覚えていた。
全身黒装束のその男は、屈強な乗組員らを錫杖の一振りで絶命させていった。目の前で起こっているこの惨状に対して、決して有効とは思えないが震える両手で銃口を男に向けるしかなかった。
「貴殿らに恨みはない。だがこの船の積み荷を大和の国へと運ばせるわけにはいかぬ。許せ」
ヤコブは死を覚悟した。しかしこの敬虔なクリスチャンであったヤコブに対し、神は慈愛による幸運をキチンともたらした。

ヤコブの震える指先は意思とは無関係に引き金を引いてしまった。
しかしヤコブの幸運はその直後に訪れる。
男は銃弾が体に触れるか触れないかの刹那、無数の烏に変化しヤコブの背後へと移動した。
これこそがヤコブの幸運であった。
ヤコブの肩に手を置いた男は、今まさにヤコブを殺そうとしていたのだが、男は何かに気が付き、それは実行されなかった。
「なんと奇怪な。お主はソレの自覚はあるのか?」
ヤコブは男が何を言っているのかわからなかった。
「命拾いしたな。貴殿は我ら八咫烏羽田家が預かり受け申す」

「八咫烏って何?その人が私たちの祖先になるの?」
父は少し恥ずかしそうでした。申し訳ない、と今にも泣きそうな表情をしています。
「その船長さんはどうなったの?まさか殺したの?」
「ごめん由紀恵。父さん、実は羽田家の実家から勘当されていてね。それ以上の事は知らないし知っていても話せないんだ」
そういえば、私は父の実家に一度も行ったことがありません。
羽田家の実家は水見市のはずれとは言え、同じ市内にあるにも関わらず。
私は自然とおじさんの顔を見てしまいました。おじさんは「任せなさい」と頷きました。
「八咫烏の発祥は紀元前二世紀頃、ユダヤ人の中で当時もっとも敬虔な信者であった人々、主にエネッセ派と呼ばれた人々によって形成されたクムラン教団にあるとされていてね。彼らは当時ヘレニズム派と呼ばれた人々と対立構造にあったとされているんだ。
わかりやすく言うとね、戦後の日本人の中で頑なに欧米文化に反対していた人々がいたんだけど、それに近いかな。
つまり自分たちの文化や歴史が他文化によって侵略される事を危惧した人たちって感じだね。
その中の一部が日本にもやってきていてね。クムラン教団の教えは密かに日本に伝えられたんだよ」
私は突然社会の授業が始まってしまった事に戸惑いながらも、わずかに芽生えた疑問をおじさん先生に投げかけました。
「その人たちは何故日本にきたの?あと何を伝えたの?」
私の素朴な疑問に対し、おじさんはなんだか嬉しそうです。
「それには諸説あるんだ。それこそ羽田家の人間なら明確な答えを持っているだろうけどね。僕の考えではね、ある人物の預言をもとに彼らは行動を起こしたんじゃないかと思ってるんだ。そして彼らが伝えたものの一つが、由紀恵ちゃんが今一番興味があるアレについてなんだよ」
「もしかして、辺獄?」
「その通り」
おじさんは「いいね?」とお父さんに目で合図をしました。
お父さんは静かに頷きます。
「辺獄という世界の話もそうなんだけどね。もっと大事な事も伝えにきたとされているんだよ。それは世界の危機にも繋がる非常に重要な件について、そうだな、日本国に助けを求めにきたと言ってもいい。未来の日本、そうこの現代において、その危機に立ち向かえる人々が生まれると予言した人物がいたせいでね。そしてその立ち向かう人々というのが羽田家になるわけだ。羽田家は代々辺獄の住人との交信方法や退治方法を受け継いできた。そしてその当主となる人物は歴代、人知れず人類の危機と向き合ってきたんだ。それは常人には理解できないほどの責任を負うと同時に、とんでもない権力をも持っているという事になる」
すると父は静かに告白します。
「父さんはね、その環境から逃げてきたんだ。今の羽田家は弟が継いでいる。父さんは怖くてね」
「辺獄ってそんなに危険なモノだったんですね」
おじさんと父は同時に首を振り、おじさんは残念そうに言いました。
「そうじゃないんだ。辺獄なんてものは何も驚異ではない」
「父さんの祖先がオランダ商船の上で破壊しようとしていたものが重要なんだ」
「それは今羽田家によって厳重に保管されているんだけどね」
父の実家に保管されている何か。それは人類にとって脅威となるような危険なもの。

「悪魔の聖典。それはネクロノミコンと呼ばれている」
「ネクロノミコン...」
丁度そこへマスターがお水をもってきました。サングラスのせいで表情は見えません。無骨な見た目のままに、低い声でマスターは父に声を掛けました。
「お嬢さん、大きく立派にお育ちになりましたね」
「あ、ああ。ありがとうおかげさまで」
どうやら私は小さい頃、マスターとお会いしていたようです。それともその頃から父はこの喫茶店の常連だったのかも知れません。
「申し訳ない、盗み聞きするつもりはなかったんですが」
マスターの表情は見えなかったけれど、その声は「申し訳ない」という許しを請うようなものではなく、まるで親戚の子供が小学校に入学した事を喜び祝うかのようなものでした。

「ご当主様に相談してみてはどうでしょう」

父は少し青ざめた表情をしています。
おじさんは少し嬉しそうです。
私はこのあと、初めて父の実家に向かう事になります。

そこには地獄がありました。

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