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人を構成するもの、の話しとかアメリカとか

今アメリカはインディアナ州に来ています。ほんとです。インスタのストーリーズでいつもどこそこにいる、と嘘ばかり嘯いているので、念のために言いますがほんとです。

そろそろアメリカに行かなければならんかも、と思い始めた頃にコロナが始まり、航空券も値段が跳ね上がりなかなか行けずにいたけど、半年前くらいにタイミングよく格安のチケットを入手(今また爆上がりらしい)したので、現在、友人夫婦のところで厄介になっています。着いてすぐ、街の子供達がハロウィンのトリック・オア・トリートをするのを見たり、車で9時間かけて昔住んでいた街を訊ねたりもしました。などと色々やっていますが、ただただ空気を吸って、匂いや音に囲まれているだけでも、何やら辻褄が合うような、腑に落ちるような、心が動きだす感覚になれます。

僕は昔アメリカに住んでいた。のだけど、自分の意志とは関係なく日本に帰国、というか、移住した。その時の、まるでそれまでの人生も未来も全て剥ぎ取られたかのような、存在の根幹を全て亡きモノにされたような、得体の知れない喪失感を言い表す方法は、今だに見つからない。「元の母国に帰っただけでしょ、問題なくない?」ってな話に見えるかもしれないが、そう単純ではないし、「英語できるようになって得したね〜」みたいな想像力のない発言に対しては何を言っても不毛なので昔からもこれからも軽蔑します。いわゆる“帰国”であることに関しては他人に理解してもらうのもどだい無理、理解されることを願ってすらいない、という“ポジティブリー投げやりー“なスタンスで来てます。そんなスタンスなんす。なんなら帰国子女同士でも割と共感できないことの方が多い。一口に帰国子女と言ってもそれぞれ境遇が違うし、共有し得ないことの方がむしろ多いかもしれない。

しかしそんなことより、一番大事なのは、誰に理解できようができまいが、僕には僕の事情がある、ということである。

誰もがそれぞれの事情を抱えており、境遇は違えど、それぞれにワケがある。他の誰かが、いくら恵まれているように見えても、いくら飄々としているように見えても、それぞれ他者には想像もつかないような問題や宿題や命題のために身を削ったり汗かいたり試行錯誤したりギリギリでしのいだりしている。かもしれない。そうやって世界はできている。そんな中うまくいったりうまくいかなかったり、いいことも悲惨なこともあるのが世界だろう。

“それぞれに事情がある”ってのが通じない人や集団やコミュニティや局面がいかに多いことか。他者がおおよそ自分と同質の常識や条件のもとに生きている、という狭量な共通理解に、なんの疑問も持たない者は多い。なので、平等の名の下に妬み嫉みが蔓延り、出る杭は打たれ、そのくせ「みんな」とか「ともだち」のような、空疎で、場合によっては有害な言葉が幅を効かせる。結果、個(個人、インディヴィジュアル)であることが蔑ろにされてしまう。視野が狭いというよりは、視点がそもそも単一で少なすぎる。外部からの視点を持たず、内輪の視点しか持ち得ないと、想像力がまるで育たない。日本に限った話ではないし、自分を棚に上げるつもりもない、が、“それぞれに事情がある”ことを蔑ろにしてしまう人や状況を日本で散々見てきたし、今後もそれらを心の底から軽蔑するだろう。

例えば音楽やら芸術やらは、“それぞれに理解しえない事情があるという前提”でしか成立し得ない、と常に思っているわけだけども、今となっては自分の周りにそういった事柄に関わる人が多い。なもので、ずいぶん楽になったような気もしている。

などとまあそんなことを、爆発的に美味いリブやたいして旨くもない冷凍ラザニアなどを食いながら、ボケーっと考えています。まるで余談だけど、旅中の食事って、たいして美味くないどころか不味い方が嬉しい場合がある。機内食とか。不味くて美味い。


ところで、懐かしむ、という感覚がほぼほぼ死んでおり、割と忘れるわ執着するのが嫌だわで、過去を振り返ってエモーショナルになるのが面倒。みたいな感じなので、アメリカのかつて住んでいた場所へ行ったり、空気を吸うというのは結構リスキーだったりする。どうしたって揺さぶられてしまうし、それが悪い方へ作用することがあるのを経験で知っている。

じゃあわざわざ行かなきゃいいじゃないか、てな話なんだが、自分の根幹を成しているものが身体からどんどん消えてゆくことは、もっと危険だ。自分の過去が実感できなくなる。自分がどこのどういう文化からきたのかわからなくなる。たとえ頭や記憶が分かっていても、身体や感覚が覚えていなければ、全部無かったも同然になる。記憶がまるで前世の残像のようになってしまい、過去から現在への連続性が感じられなくなる。それはかなり危険だ。

昔むかしの僕は日本に移住した際、ダルマ落としのように、カラダを全て失い、頭部と意識だけになり、おおよそ人間とは呼べないものになってしまったように感じていた。実際はそんなはずないことを頭では分かっていても、身体が“自分”を実感できなくなった。理屈ではない。自分を構成する景色や匂いや音や記憶から、あまりに遠く隔たれてしまうと、人はカラダを失ってしまいかねない。そして運悪く、本当に失ってしまった人間は、なんつうか、危険だ。失うものがない(と思い込んでる)人間は危険である。

人間は、目にしてきた景色や吸ってきた空気で構成されている。それは社会学でも言われることで(なんて学者が言ったかは忘れたが)、それらが剥ぎ取られた時、存在はその内容を喪失する。引っ越しが多かったとか、強制的に故郷を追われた、みたいな経験のある人にしかピンとこない感覚かもしれないが、そういうことは、実際に起こる。そしてその感覚は、当人にしかわからない。僕は記憶や過去に執着したくはないが、でもできれば、自分の手から自分の根幹のようなものをまた失ってしまうことは、できれば阻止したいのだ。なのでアメリカにまた来た。

長いこと、アメリカで暮らしていないこと、親しんだ故郷で人生を歩めていないこと、そこで未来を描けないこと、馴染めない環境にいなければならないこと、に納得がいかなかったり苦痛だったり怒りや憎悪を抱いたりしていた。処理しきれなかったというか。今回アメリカに来て、いい意味で、あまり何も、そこまで劇的な感情は起こっていない。揺さぶられていないというか。多少の感慨はあるが、割とヘラヘラプラプラしてるだけでいられる、というか。懐かしくもない。ただヘラヘラしながら、自分を構成するエレメントを、カラダから抜けていっていた要素を、自然に再獲得しているような感覚だ。

なもので我ながら多少は進歩したもんだ、と思う。個としての軸が多少は太くなったのだろうか。あるいは単に歳食って感受性が鈍くなっただけなのだろうか。それとも今だに音楽を演奏していること、たまたま人に恵まれていること、が大きいのだろうか。もはやなんでもいいしいろんなことのおかげだろう。僕は自分の状況やら友人知人たちやらに、そこそこ感謝している。

なもんで、もうちょいしたら日本に戻ります。

ところでお土産は基本買わない主義なので、そこは期待しないでおいてください。

(ここで書かれていることは帰国子女全てに同様ではない。年齢、渡航時期、渡航のタイミング、本人の性格、両親の性格、親子関係、親族との関係、渡航先の地域、渡航先の文化、周囲に日本人がいるかどうか、などなど無数の要素が複雑に作用し合い千差万別なので、一般論ではありません)

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