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生きるということ

19歳の時に書いた脚本に「わしは魂の寿命と肉体の寿命が噛み合わなかったのじゃよ」というセリフを書き、お爺いさん(母方の)に演じて(読んで)もらいました。映画自体は、退屈極まりない「この街」とはちがう「誰もが本気でやりたいことをやっている理想郷」があって、主人公がそこに行こうと試行錯誤する話です。そこにいくためのヒントを探している過程で、その「理想郷」から帰ってきた男がいると聞きつけてその男の元を訪ねるという場面でした。主人公はなぜ「理想郷」から「この街」に帰ってきたのかと質問します。男は白いベッドに横たわったまま冒頭のセリフを答えるのです。

19歳の自分が考えたことですから、それほど深い意味を込めていたわけではありません。が、ずっと私の心の中に留まっており、社会経験を重ねた後に介護の仕事に携わるようになり、だんだんと私なりの考えが深まってきたので書き記します。

何度かここでも、書いてますが私が大切だと思っているのは「自分の時間を自分で楽しむチカラ」です。寝たきりになったとしてもそれは可能だと思っています。肉体が元気なうちにやるべきことは自分が本当にやりたいことをやること。

この自分の思いの原点になったいるのは14歳の時に読んだ「あしたのジョー」という、ちばてつや先生の漫画です。この漫画は時代の影響もあり後半はいかに自分の存在を滅するかという滅びの美学のような方向で締めくくられるのですが14巻にこんなセリフがあります。

「そこいらのれんじゅうみたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんのしゅんかんにせよまぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる...。燃えかすなんかのこりやしない...まっ白な灰だけだ。」
「わかるかい紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘がすきなんだ。死にものぐるいでかみあいっこする充実感がわりと、おれ、すきなんだ。」※ちなみに「拳闘」とは「ボクシング」のことです。

このセリフは14歳の自分に深く刻み込まれました。「重要なのは長く生きることではない」という強烈な刷り込みが行われました。

ちなみに脚本に書かれた「理想郷」について、21歳の私にフェミニズムの考え方と「非暴力」について懇々と叩き込んでくれたRさんと「喧嘩や殺し合いがその理想郷にはあるべきか」という議論になりました。Rさんはそれは紛れもなく「暴力」だからあり得ないという立場でしたが、私の「理想郷」には喧嘩も殺し合いも包摂したいのです。当事者同士がそれを望んでいればという注釈がつきますし、その注釈があり得るのかという問いは今も残っており、それについては現在も思索中ですが。

いずれにしてもこの考えは「あしたのジョー」の影響です。読んでいない人にはぜひ読んで欲しい名作です。そしてその後に松本大洋さんの「ゼロ」というコミックを読んで欲しいです。松本大洋さんの「あしたのジョー」へのオマージュというかアンサーソングというか、対をなす作品だと思います。

肉体が元気なうちは我を忘れるほどに夢中になれることをすること。ゲームだっていいと思います。寝食が二の次になる程の没頭感を得られるなんて素晴らしいことだと思っています。皮肉でも嫌味でもなく心の底から思っています。

それは動けなくなった時の自分時間を楽しむための「記憶」という大きな資産になるのではないかということ。だからこそ人はどんな場所にあっても、楽しむことができる能力を等しく与えられているはずだということ。

それが現時点での私が考える「生きるということ」です。